ひと悶着
結局、ケイはフライドポテトを食べきれず、女性陣に手伝ってもらう羽目にはなったが、三人揃って昼食を終えることができた。中でも一番の食欲を見せたデイジーはまだまだ余裕があるらしい。満腹感など存在しないかのように振る舞う彼女のキャパシティに脱帽する。ケイから感服の眼差しを受けるデイジーは両手の指を絡めながら高く突き上げ、ぐっと全身を伸ばすと、いまだ未定であった今後の方針について口火を切った。
「さて、お腹も満たされたことだし、もう少し見てまわってみる?」
「そうね。意外な掘り出し物があるかもしれないし……。ケイさんはお疲れではありませんか?」
「全然平気です。俺もまだ色々と見てみたいと思ってました」
「じゃあ、そうしよっか。まだ雑貨とか古道具とか見てないものもあるもんね」
テンポよく予定が決まり、食事の後始末をしてベンチを発つ。そうして来た道を戻り始めるが、行きは昼食目的で移動してきたためにここへ至るまでの経路ではほとんど店を見てこなかった。故に、一度通った道であっても新鮮な気分になる。
視界に映り込む店を順に冷やかしつつ、三人はゆっくりと西を目指して進んでいく。どうやら噴水のある広場の中央部分を抜けた先へ向かっているらしい。かなりの距離があるが、腹ごなしも兼ねてのんびりと歩き続ける。
そのまましばらく歩み、そろそろあのタンポポの皿を購入した食器類を売る店が集う区域へ差し掛かった頃。不意にデイジーがピクリと耳を揺れ動かした。
「あれ、何か騒がしい……?」
「あちらのほうで何か揉めているみたいね」
デイジーが察知した何かをラナも聞きつけたようだが、ケイの耳には何も聞こえない。だが、周囲の人の流れが妙に偏っていることには気付き、首を傾げる。一体、何が起きているのだろう?
とある箇所を避けるような人々の動きを読み、その合間を縫うように逆行すれば、原因たる地点にはすぐに辿りつけた。人の波から離れ、人混みにぽっかりと穴が空いたように避けられている区画を確かめるように覗き込む。すると、視線の先、奥に構えた店の前で何者かが座り込んでいるのが見えた。
当然、店の正面を塞がれ、客の出入りを妨げられた店の主はすっかり困り顔でいる。恰幅のいい猫に似た女性獣人の店主は腰に手を当て、厄介者をせっついた。
「困るよ、お客さん。ほかのお客さんの迷惑になるし、こんなところで酔っぱらってないで退いてくれないかい」
「うるせぇなァ……何処で飲もうとおれの勝手だろうがよ……」
店主の切実な言葉にも応じることなく、うだうだとくだを巻く男の手には酒瓶と思わしきボトルが握られている。その様子を見て、クン、と鼻をひくつかせたデイジーが俄かに眉間に皺を寄せ、小さく首を横に振った。
「あれはひどいね。昼間から泥酔してるよ」
「警備の方に知らせておきましょうか」
「そうだね。そうしたほうがよさそう。さっと通り過ぎて警備課の詰所のほうへ行こうか」
原因を確認した上で迅速に対応を決め、ラナとデイジーが方向を変えて歩き出す。しかし、泥酔した男を避ける人の流れに——野次馬と思わしき人々が集ってきていることもあり——押し出され、なかなか前へ進めない。人混みの中へ戻ることを諦めた三人は、仕方なしにできるだけ揉め事の起点である男を遠巻きにしてこの場を離れることにした。
視線を向けないように気をつけ、足早に歩く。人だかりの薄いところを目指すには否応なしに男へ近づくことになるが、あくまでただの通行人として通り過ぎるだけだ。時間にして数分にも満たない。けれど、その方針はうまくいかなかった。
酒瓶を呷り、しゃっくりまで上げる男のすっかり据わりきった眼がこちらを捉えた。その目線は、ヒール付きの靴を履いていることもあり、三人の中でもっとも背が高く目立つラナへ注がれる。ふと嫌な予感を覚えた矢先、男が口を開いた。
「あ~……? おいおい、公衆の場に紛い物の羊肉が混じってんじゃねぇか。道理でクセェわけだな!」
「は……?」
耳に飛び込んできた言葉が理解できず、思わず足が止まる。すぐに反応を示してしまった自身の迂闊さに気が付くものの、その後悔が押し寄せるよりも先に、ケイ以上に男の罵倒へ大きく反応した者がいた。
それまで他のふたりを先導するように先を歩いていたデイジーが、今度は己の身を盾とするように男へ詰め寄っていく。その背中に怒気は感じられない。尻尾もだらりと力なく垂れ下がっている。明らかに悲しんでいる様子の彼女は真っ向から男と対峙し、不服を申し立てた。
「オジサン、それはいくら何でもひどいんじゃないかな?」
「デイジー、いいの。私は平気だから……」
非難にしてはあまりに物腰の柔らかい、まるで幼子を窘めるような語調で抗議するデイジーを、彼女の後を追ったラナが宥める。こんな時ですら温厚な性根を誤魔化すこともできないふたりの様子に、男が笑う。なんとも粗野で下卑た嘲笑だった。
「よく見たら連れも犬ころじゃねぇか。作り物同士でまだ傷の舐め合いしてんのか?」
刹那、ケイの脳裏にある記憶が駆け抜けていった。迫る金獅子への恐怖、そして罵られるトーラスをただ見ていただけの情けない自分。
いまだ記憶に色濃く残っている後悔と自責の念が、衝動となってケイを突き動かす。
「しかも男連れかよ。一丁前に女ぶりやがって。お前ら人工獣人の雌が男を作ったところで——」
「あのッ!」
依然として続く男の罵声を遮るように声を張る。焦燥に近しい感覚を纏う脚を動かしてラナとデイジーを追い越し、ふたりと男の間に割り入る。それからひとつ息を吐くと、ケイはきっぱりと自身の要求を口にした。
「それ以上は、やめてください」
不思議と声に震えはなかった。暴力を振るわれる可能性への恐怖はあるし、慣れないことをしている自覚もあった。生まれてから此の方、喧嘩なんて一度もしたことがない。暴力にも縁遠く、自分がそういった方面で役立たないことは百も承知だ。
もっと言えば、男の言うことは半分も理解できていない。彼が何を言っているのかなんて、新参者の自分にはわからない。けれど、ラナとデイジーがひどく侮辱されたことだけは理解できた。そして、侮辱されてもなお、彼女たちが怒れないことも、なんとなく知っている。
だから、許せない、許したくない。その気持ちひとつを拳に握り込んで、ケイは今ここに立っている。ケイを優しく受け入れてくれた人たちへの罵倒なんて、これ以上、ひと欠片だって聞きたくなかった。
そうして体を張って立ち塞がったケイだったが、年若く痩身であるせいか、悲しいかな、男は怯みもしない。どうしようもない酔漢は視線を遮るケイの顔を睨み上げ、唇を嘲笑に歪めた。
「はは、ガキが王子様気取りか? その細腕で何ができるって言うんだよ、ああ?」
酒瓶を地面へ叩きつけ、男が勢いよく立ち上がる。瓶が割れ、飲みかけのアルコールが飛び散った。周囲から小さく悲鳴が上がるが、それは酔っ払いの興奮に油を注いだようだった。
強いアルコールの臭いが鼻を衝く。吐息まで酒浸りになった男はよろめきながらもケイが着ているシャツの襟元を乱雑に掴んだ。そして、先ほどまで酒瓶を握っていた手で拳を作り、これ見よがしに振りかぶる。
「反抗的なガキには仕置きが必要だよなァ?」
「ケイさん……!」
背後でラナが悲鳴を上げた。
殴られる。即座に頭の中に過ぎった予感は確信に近しい。だが、何故だかこの土壇場で思い出したのは、自分がいまだ手に持っている袋の中の割れ物たちだった。せっかく買ったものが割れてしまう。何処か場違いな心配に焦りが生じるものの、もはや後の祭りだ。せめて殴り倒されて荷物を下敷きにすることがないように四肢に力を込め、食器類の無事を祈るしかない。
来たるべき痛みと衝撃に備え、ぎゅっと眼を瞑る。背後でラナとデイジーが息を飲む気配がした。痛いのは嫌だな、と今さらすぎる考えが胸に過ぎったが、溢れ出そうな恐怖を押し殺し、体を強張らせる。けれど、予想していた展開は終ぞ訪れなかった。
「……見苦しいな」
唐突に、不機嫌そうな声音が投げかけられた。低い男の声だ。その重々しい響きは聞き覚えがある。ケイは閉じていた瞼を持ち上げ、そして目を見張った。
今にもケイを殴りつけようとしていた酔っ払いの後ろ。振りかざされた腕を掴み、容易く暴力を阻止したのは獅子頭の大男——アスランであった。
以前はトーラスへ向けられていた怒りに燃える双眸は鳴りを潜め、今はそこに静かな侮蔑を宿している。金毛の獅子は遥か高みから酒臭い小男を見下ろし、粛々と裁定するように己の見解を述べていく。
「酒に溺れ、女こども相手に虚勢を張る。人間性の欠片も感じられない愚かしさだ」
「き、金獅子……!?」
突然現れたアスランによって拘束された男がひどく狼狽した。どうやら彼のことを知っているようで、酔った赤ら顔が途端に青褪める。対し、アスランは淡々とした態度を崩すことなく溜息交じりに男へ命じる。
「その手を離せ。もうお前はその少年を殴れまい。無駄に襟ぐりを伸ばしたところで弁償金がかさむだけだろう」
「クソッタレ……! どいつもこいつも作り物の分際で……!」
「……ならば、お前の言う作り物の牙。その切れ味がどれほどのものか試してみるか?」
「ぐッ……!」
これまでの冷静沈着な振る舞いから一転、喚く男へアスランが不快感を示すように鼻に皺を寄せた。すると、それに連動して口元が持ち上がり、太い牙の切っ先が僅かに覗く。威嚇、もしくは、警告。低い唸り声が辺りに響いた。
大型肉食獣の迫力を間近で浴びせかけられることになった男はもはや言葉を口にすることもできなくなったのか、さらに蒼白となった顔を引き攣らせている。否、酔漢だけではない。周囲の野次馬及び通行人も息を飲んでこちらの様子を窺っている。気付けば誰もが口を噤み、アスランの一挙一動に注目していた。
重苦しい緊張感が場を完全に支配し、ケイ自身も微動だにできないまま、アスランに釘付けとなった。逃げ出したい。けれど、逃げたら背中から襲われる。そんな錯覚がこの場に会したすべての人々の足を縫い留めていたに違いなかった。
あまりの重圧に、喉が異様な渇きを訴える。耐えきれないほどの欲求は張り詰めた神経に綻びを生む。ごくり。気付けば、ケイは半ば無意識に喉を鳴らしていた。そして、その次の瞬間。
「はい、そこまで~! 喧嘩はやめてね~」
「テディっ!」
緊迫した空気を掻き消すように人混みの中から誰かが飛び出してきた。ケイの背後でデイジーがその誰かの名を叫ぶ。それをきっかけにしてケイは固定されていた視線をアスランから引き剥がし、乱入者へ目を向けた。
テディと呼ばれたその者は犬獣人の男性だった。ぼさぼさの白い被毛は眼にかかるほど長く——後に調べたところ、オールド・イングリッシュ・シープドッグという犬種らしい——警察官を彷彿とさせる紺色を基調とした制服に身を包んでいる。腰に警棒を下げた彼はこちらへ駆け寄ると、ケイの背後を見て、前髪の隙間から微かに覗く目を丸くした。
「あれ、もしかしてデイジーとラナも被害者なのかな。お父さん、子どもや女の子相手に暴言吐いたらまずいでしょ。いや、男相手もまずいけど。通報者によると露店の業務妨害もしてたんだって? アルコールの匂いもするし、ちょっと詰所に来てお話を聞かせてくれる?」
「また犬ころかよ……作り物のくせに……」
「うんうん。そういうのも後で聞くからね~。お父さん、ちゃんと歩ける? 無理そうならボクが背負うけど」
アスランから相手が変わったことで多少の精神的余裕を取り戻したのか、性懲りもなく悪態を吐く小男に随分と慣れた調子で対処するテディは飄々としていながらも頼もしい。犬のおまわりさんといった風貌の男が現れたおかげで場の空気が徐々に緩んでいく。野次馬の中にはその場に残る者もいるようだが、たまたま通りがかっただけの通行人はふたたび歩み出し、停滞していた人の流れが動き出していた。
もう暴力沙汰になることはないだろう。酔漢から解放されたケイも細く息を吐き、凝り固まっていた全身を弛緩させた。酔っ払いはさりげなくケイから離され、まだうだうだと文句を垂れているようだが、こちらを見ることもせずにいる。ホッと胸を撫で下ろすと、これまでずっと背後にいたデイジーが駆け出し、早くも酔っ払いを宥めきったらしいテディへ近づいていった。
「テディ」
「やあ、デイジー。今朝ぶりだけど、せっかくの休暇に災難だったね。何かひどいことされた? 怪我してる人はいる?」
随分と親しげな様子でデイジーに応え、テディがさりげなく確認を取る。それにゆるゆると首を横に振り、デイジーはこれまでの状況を簡潔にまとめ、伝えた。
「ううん、大丈夫。花屋の新人さんがぶたれそうになったけど、アスランが止めてくれて……」
「なるほど。ありがとう、アスラン。キミがいてくれて助かったよ」
「……人として当然のことをしただけだ。礼を言われるほどのことはしていない」
テディが来てからすぐに口を閉じ、沈黙を保っていたアスランが眉間に皺を寄せたまま、そっけなく感謝を拒む。そんな彼の様子にも慣れているらしいテディはただニッコリと笑った。それから、気まずげに目を逸らすアスランを追及することはせずに、こちらへ向き直った彼は如何にも犬のおまわりさんらしく話を切り出す。
「さて、ボクはこれから話を聞いて調書を取るんだけど、被害者側の話も聞いておきたいから、誰かボクと一緒に来てくれないかな。せっかく買い物を楽しんでいたところ、本当に悪いんだけど……」
「じゃあ、私が行くよ。被害はほとんどないし、私だけでも充分でしょ? ラナとケイくんは買い物を続けて」
「え……でも……」
即座に手を挙げたデイジーの言葉に戸惑い、言い淀む。だが、相変わらず人の好い笑顔を浮かべた彼女はケイを制止するように両の掌を見せた。
「いいから、いいから。私が口出しして騒ぎを大きくしちゃったし。ラナもごめんね」
「ううん。……ありがとう、デイジー」
「私は何もしてないよ~。そうしたら、また後で連絡するね。ケイくんも荷物を持ってくれてありがとっ。またねっ」
あっという間に話をまとめると、デイジーはケイから自身の荷物を受け取り、酔っ払いを背負ったテディと共に去っていった。人混みの中へ消えていく背中を見届ければ、蚤の市の喧騒の中、俄かに小さな静寂がケイたちを包み込む。
そこでようやく三人だけ取り残された現在の状況に考えが至り、ケイはこっそりとアスランの様子を窺った。腕一本で酔漢を押し留めてみせた大男は以前の鎧姿と異なり、幾分かカジュアルな装いをしている。いわゆる私服というものなのだろうが、怒らず、牙も見せていない彼は最初に抱いた暴力的な印象から大きくかけ離れているように思えた。シャツやジャケットを身に纏い、長い鬣をきちんと結わいている姿は紳士的とすら言える。
——体を張ってたくさんの人を守っているやつなんだ。すごく真面目だし、努力家でもある。ただ、少し色々あってな。俺を見かけるとちょっとばかり頭に血が上っちまう。
協会内の食堂で聞かされたトーラスの言葉が頭の中で回生される。たしかにトーラスさえ関わらなければ、アスランはむしろ落ち着いた性質の男なのだろう。先ほどの威圧感こそ凄まじいものだったが、結果的には誰も傷つけることなくケイたちを助けてくれた。
助けてもらったのだから、お礼を伝えたい。当然そう思うものの、黙するアスランは牙を見せた時とはまた異なる迫力を感じさせる。端的に言えば、とっつきにくい。ただでさえ人見知りのケイは早くも萎縮し、まごついてしまう。すると、先にラナがアスランへ声をかけた。己の兄よりも上背がある大男に臆することなく彼女は柔く微笑んだ。
「久しぶりね、アスラン。助けてくれて、本当にありがとう」
「……別に。テディにも言ったが、人として当然のことをしただけだ。礼を言う必要はない」
「それでも私たちが助かったのは事実でしょう。だから、ありがとう」
「……相変わらずだな、あなたは」
登場してからずっとむっつりとしていたアスランが微かに口元を綻ばせる。どうやらラナとの関係は良好であるらしい。最初に出会った時とは大違いの態度に複雑な気持ちを抱いていると、ラナと言葉を交わしていた獅子の眼がこちらを捉えた。
ケイの頭上に位置する面貌が然もバツが悪そうに曇り、一瞬、その視線を彷徨わせかける。だが、彼はすぐに気を取り直し、真っ直ぐにケイを見つめ、重々しく口を開いた。
「……花屋の新人……ケイと言ったか。以前は、悪かった。人にあるまじき振る舞いをした自覚はある。初対面の人間に見せるものではなかった。本当に、すまなかった」
一切、目を逸らされることなく語られた謝罪の言葉は、疑いようもなく真摯で、誠実だった。そこに偽りなんてないことは、彼とはいまだ初対面に等しい立ち位置であるケイにも理解できた。しかし、だからこそ、こんなにも生真面目な人がトーラスに対して異常なまでの嫌悪を示す理由がわからない。
彼の人となりに触れたところで謎は深まるばかりだったが、当のトーラスからの頼みもある。次に会った時には普通に接してやってほしい。温和な花屋の先輩はそう言っていた。故にアスランの謝罪を受け入れるべく口を開きかけるが、言葉を発する前にまたもや先を越されることとなった。それまで和やかに微笑んでいたラナが眉を寄せ、口を挟む。
「アスラン、まさかあなた、また兄さんに……」
ケイはハッとして喉奥まで出かかっていた言葉を慌てて飲み込んだ。そう言えば、先日の事件——トーラスがアスランから暴言を受けたことについてはラナに黙っていたのだった。彼女からすれば寝耳に水であろうが、その口ぶりは彼らの確執を前々から知っていたことを示している。
二メートルはありそうな大男を見上げ、ラナは悲しげに眉を下げた。そうして懸命に、けれど平静を手放すことなく、自らの兄のために訴えかける。
「あなたと兄さんの間に何があったかは知らないけれど、兄さんにあんまり酷いことは言わないで」
「……約束は、できない」
「……そう……」
苦虫を噛み潰したような顔をしたアスランに拒絶され、ラナは俯き、地面を見た。俄かに居た堪れない空気がふたりの間に流れる。だが、それは一瞬の出来事だった。
すぐに顔を上げたラナの表情は既に悲しみを拭い去っていた。きっとこのままでは話が平行線になるだけということを察したのだろう。彼女は努めて明るい声を出し、わかりやすく話題を変えた。
「でも、アスランがこんなところにいるなんて珍しいわね。あなたも蚤の市を見に来たの?」
「いや。今日は非番だから、近くの店に金魚の餌を買いに来ただけだ。そうしたら、帰り道であなたたちが騒ぎに巻き込まれていたのが見えたから」
「そうだったの。私たち、運がよかったのね」
和やかに微笑むラナの面差しは常と変わらない。対するアスランはやはり何処か気まずげな顔をしているが、その手にはたしかに買い物袋が提げられている。たくましい大男が——それも百獣の王ライオンの獣人である彼が——小さな金魚を飼っているらしい事実はなんだか意外に感じられたものの、その場面を想像すると少しほっこりした気持ちになる。
自身よりも小柄なふたりから穏やかな眼差しを注がれたことで、居心地の悪さが増したらしいアスランは視線を逸らし、話を切り上げた。
「……金魚の世話があるから、帰る。買い物を続けるにしろ、帰るにしろ、気をつけて行け」
「ええ。ありがとう」
最後に忠告めいた言葉を添え、金獅子が去っていく。遠退き始めた背中を見て、ケイは慌てた。まだ彼に伝えていないことがある。焦り、先ほど飲み込んでからずっと喉に詰まっていた声が咄嗟に飛び出した。
「あ……アスランさん……!」
「……なんだ」
呼び止められ、立ち止まったアスランが振り返る。その訝しげな顔に少々怯むが、せっかく足を止めてくれた彼を、これ以上待たせるわけにはいかない。自身の気持ちをできるだけ端的な言葉にまとめ、頭を下げる。
「その……ありがとうございました」
「だから……いや、まあ、いい。ラナを庇ったのは立派だったが、その様子では喧嘩のひとつもしたことがないのだろう。勇気と無謀は違う。次からはすぐに人を呼ぶことだな」
ケイの感謝の気持ちを溜息混じり受け取ったアスランはひとつ釘を刺すと、踵を返し、今度こそふたりのもとを去っていった。その目立つ後ろ姿を見送り、やがて彼が何処にいるのかもわからなくなる。これでトーラスとの約束は果たしたことになるだろう。
なんだか肩の重荷が下りたような気分になったケイはラナのほうを振り返った。これからどうするか話し合って、それから購入した皿と花瓶が——結局、殴られなかったから、きっと大丈夫だとは思うけれど——無事かどうかも確かめなくてはならない。そんな大雑把な段取りを頭の中で組んでいたのだが、ラナの面差しを見た途端、それらは一旦引っ込める必要があることを覚った。
目と目が合い、何かを決心したらしい彼女は遠慮がちに、しかし、しっかりと意思を宿した眼差しで持ちかけてくる。
「……あの、ケイさん。少し、そこでお話させていただいてもよろしいですか?」
そう言って広場の端にあるベンチを指さすラナは思い詰めたような、はたまた何かを諦めたような、そんな顔をしている。だから、ケイは頷き、ただ微笑んだ。先の酔っ払いが吐いた、ほとんど意味もわからぬ言葉たちが脳裏で何度も巻き戻されていたけれど、これから自分はその意味を知ることになる。そんな確信めいた予感を抱きながらも、それを覚らせないように、できるだけ優しく柔らかな表情を作ってみせたのだった。




