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バスの中

 ぽつぽつと細やかな水滴が窓ガラスに降り注ぐ。流れゆく景色を洗うように目の前を伝っていく雨粒を、ケイは意味もなくジッと見つめていた。カラーコンタクトのおかげで周囲の人と同じ色に変じている双眸が、バスの車窓に薄く映り込んでいるけれど、その瞳はぼんやりと宙へ向いている。

 この雨のせいか、登校日には毎日利用している時間帯なのにも関わらず、車内にはいつもより人が多い。車内前方の二人席に腰かけるケイの視界には映らないが、常に比べて密度を増した気配を感じていた。

 知り合い同士で乗り合っている者はいないようで、話し声は聞こえないものの、雨音やエンジン音に、衣擦れの音や咳払いが紛れ込む。その程よい人の気配はケイに仄かな安心感を与え、両耳を塞ぐイヤホンから注ぎ込まれるポップス——最近流行りの曲らしく、街のあちらこちらで耳にするものだからすっかり馴染んでしまった——も相まって、意識が己の内側へ沈み込む手助けとなった。頭の中で、数日前の会話が回生される。


 ——まあ。ケイさんも蚤の市にご興味が?


 配達を終わらせ、店へ帰った日曜の夕方。チラシを手渡すついでにトーラスから、ケイも蚤の市に興味があることを伝えられたラナがパッと目を輝かせて弾んだ声を上げた。彼女はいそいそと仕事終わりのお茶会の準備を進めながら、まだ話していなかった兄の提案をそっくりそのまま口にした。


 ——なら、せっかくですし、よかったら一緒に行きませんか? デイジーは私の昔からの友人なのですけれど、彼女も喜ぶと思いますから。


 チラシをくれたゴールデンレトリバーの受付嬢の名を出して笑うラナの表情は明るく、裏や含みをまったく感じさせない。その無邪気さにケイも思わず頷いて、久方ぶりに休日の予定が決定された。本当に自分の存在が邪魔にならないだろうかと往生際の悪い疑問が脳裏に居座っていたが、キッチンの冷蔵庫(これも電気で動く家電というわけではなく魔道具の一種らしい)に貼られたカレンダーの、再来週の土曜日の欄へウキウキと予定を書き込むラナの姿を見ているうちに、そんな考えは小さく縮んでいったのだった。


 回想に耽り、気付けば、窓ガラスに映る自分の顔が微かに和らいでいた。あの花屋で過ごす時間はケイにとって心地好いものであり、こうして日々の生活の中で何度か思い出すことが増えている。その間は雨降る日の気怠げな湿気も忘れてしまうのだから、自分で思っている以上に今の生活を気に入っているのかもしれない。

 そんなことを考えながら、自身の胸元にそっと触れる。制服の下、インナーシャツとスクールシャツの間に挟まっているのは、革製の古いカードケースだった。細い革紐で首からぶら下げられているそれは、先日受け取った身分証カードを失くさないようにとラナとトーラスが自分たちの持ち物から引っ張り出してきてくれたものだ。

 肌身離さず携帯する必要があるカードは、ケイの世界においてはひどく半端なサイズをしている。故に、こちらの既製品から適合するものを見つけるには、かなりの苦労をするのは間違いなかった。そんなわけでありがたく頂戴したカードケースは見るからに古びていたが、年季の入った動物の革は艶やかな飴色に変化しており、相応の味わいがある。その上品な質感は学生である自分には分不相応に思ったけれど、先輩店員たちがよく似合うと褒めてくれた挙句にふたりがかりで言い包めてきたものだから、もう使う予定のない不用品とは言え、つい無償で譲り受けてしまった。

 あの物置部屋から花屋へ通うようになってからと言うもの、自分はずっと何かを貰ってばかりいる気がする。まだ不慣れな身ではあるが、いつか自分も何かを返せる日が来るのだろうか。いや、まずは自分の仕事を満足にこなせるようになるのが先か。己を優しく迎え入れてくれた先輩たちを脳裏に描き、ふたたび長考に沈みかける。その時だった。

 とんとん。誰かの指先に肩を叩かれ、ケイは振り返った。先ほど車内へ視線を向けた時よりも幾分か混雑してきた中で、ケイの横に立っていたのは、この数週間ですっかり見慣れた女子生徒だった。


「岡崎さん」

「おはよう、雨森くん」


 両耳からイヤホンを抜き取り、彼女の名を口にすると、いつもと同じ愛想のいい笑顔がそれに応えた。小花柄の折り畳み傘を片手に握り、髪先を微かにしっとりと濡らした岡崎さんはケイの横、空いたスペースを指差し、小首を傾げる。


「隣り、いいかな?」

「ああ、うん。どうぞ」


 もとより窓際に寄り、荷物もすべて膝に乗せていたこともあり、二人掛けのシートは難なく新たな同乗者を迎え入れる。隣り合ってみると、教室と同じ並びではあるものの、距離が近いせいかなんだか妙な感覚だ。イヤホンを通学用のリュックサックにしまいながら何か話題を振るべきかと考えるが、ケイが思いつくよりも先に岡崎さんが当たり障りのない話を提供してくれた。


「雨森くんってバス通学だったんだね」

「うん。でも、この時間に岡崎さんと会うのは初めてだよね?」

「私、普段は自転車通学なの。でも、今日は雨が降ってたからバスにしたんだ」

「なるほど」


 同じ考えの者が多いのだろう、常とは異なる車内の人の数を思い、納得する。グランマの家の最寄りから毎日三十分程度バスに揺られて通学しているが、駅とは逆方面のためか、今までこの時間帯に自分と同じ制服の学生はほとんど見かけたことがなかった。あまり意識していなかったが、今日はこちらへ越してきてから初めての雨天かもしれない。

 車体を洗い流すような雨の音を聞き、そんなことに気付く。すると、岡崎さんも近頃の天気について考えたようで、窓の外をチラリと見やり、小さく溜息を吐いた。


「今週は結構降るみたいだけど、土日までにはやんでほしいなぁ」

「何か用事があるの?」

「家族と一緒に犬を連れてドッグランへ行こうと思っていて……雨が続くと普段のお散歩にも行けないし、晴れるといいんだけど」


 いつも控えめに笑っている彼女にしては珍しく、困り顔で天上の分厚い雲を見やる。その膝上のスクールバッグには、耳の垂れた茶色い犬のマスコットがぶら下げられている。実物よりも随分と簡略化され、フェルト生地を縫い合わせて作られた犬は、黒いビーズの瞳でケイを見つめてくる。

 もしかしたら手作りのマスコットなのかもしれない。そうだとしたら、岡崎さんは相当な愛犬家だ。ケイは話を続けるためというよりも、単純に自らの好奇心から訊ねた。


「犬、飼ってるんだ。何犬?」

「ダックスフンド。茶色いからモカっていうの。雨森くんは犬、好き?」

「うん。かなり好きなほうだと思う。犬に限らず動物はなんでも好きなんだ」

「そうなんだ。じゃあ、特に好きな動物っている?」


 無難な会話の末にこれまた無難な質問を返され、ケイは一瞬、考え込んだ。けれど、自分の中には疾うに決まっていた答えがあって、それはするりと自然に口を衝いて出た。


「最近は、羊と牛……かな」

「意外なチョイスだね。牧場が好きなの?」


 ケイの答えを聞いた岡崎さんが微笑ましげに笑う。当然の問いかけには曖昧に頷き、微笑み返すだけに留めた。牧場と言うよりは花屋が好きだという本音は口に出せるわけもなく飲み込む。

 本当に、自分で思っている以上に今の生活を気に入っている己に少し呆れていた。働き出してまだひと月も経っていないし、口数の少ない性質(たち)ゆえにすっかり馴染んでいるとは言い難い。店主であり名目上の師でもある花の魔女の当たりも厳しい。それでも、あの小さなお庭(リトル・ガーデン)がケイにとって居心地のいい場所になりつつあることは間違いなかった。

 今は遠い、物置部屋の向こう側に思いを馳せながら、ふたたび何となしに窓越しの空を仰ぎ、ふとあることに気付く。そう言えば、花屋や魔法使い協会のある世界でもまだ雨を見たことがない。さすがにずっと降らないということはないだろうが、少なくとも来週の土曜日は晴れてほしい。心からそう願い、ついでに今週末も晴れますようにと空に向かって念じてみたりして、ケイはまた隣りの席のクラスメイトとの会話へ意識を戻した。

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