金獅子アスランⅠ
会計係に任命されてから、十件ほどの配達先をまわった。その間に何組かのお客さんが飛び込みで生花を始め、ポプリやブーケガルニを買いに来て、ケイはそのたびにトーラスから商品の値段を聞いて料金とお釣りを計算してきた。一度、聞いた商品の価格はメモ帳に書き留め、今では随分な数を把握できている。特に計算を間違えることもなく、自分の役割を果たしたことが自信となったおかげか、ケイの心は至って軽やかだ。
だが、数時間ほど歩きっぱなしとなると、さすがに少し疲労が溜まってくる。すると、ちょうど梟の鳥人が——鳥の姿をした人は獣人ではなく鳥人と呼ぶのだと教えてもらった——営む小さな書店に虫除けのポプリを卸し、店を後にしたところでトーラスが告げた。
「よし、今日の配達はこれで終わりだ。切り花も結構な売れ行きだったし、成果としては上々だな」
これでおしまいと聞き、ケイは密かにホッと胸を撫で下ろした。普段からあまり活動的とは言えない生活をしているせいで、脚が少し重みを増してきていた。明日はきっと筋肉痛になることだろう。今後のアルバイトのためにもうちょっと体を動かすようにしたほうがいいかもしれない。
そんなことを考えていると、街中に鐘の音が響いた。それは西側の地区にある学校で鳴らされているものらしく、ここまでも何度か聞こえてきていた。
低く尾を引くように鳴り響く鐘の音を聞き、トーラスが自身の腕時計を覗き込む。
「おっと。もうこんな時間か。よく歩いたし、腹減っただろ。協会に戻って食堂で飯にしようぜ」
「協会の食堂って協会の人たち以外も利用していいんですか?」
「ああ。基本的にはどの施設も職員向けだが、外部の人間も使えるんだ。他にもベーカリーだとか喫茶店、図書館なんかもあるぞ」
そういえば、前にラナがブーケガルニを協会の食堂にも卸していると言っていた。それに、花屋で最初に食べたショートブレッドもたしか協会のベーカリーで買ったものだったはずだ。
魔法使い協会というものがどういった組織なのかいまいち理解しきれていないものの、案外気楽に利用していいところなのかもしれない。個人的には図書館が気になるが、せめて英語ならともかくこちらの言語はまったく読めない。協会や花屋で使用されているという翻訳魔法は聴覚的な補助に限るようだ。文字自体はなんとなくアルファベットに似ている気もするため、もしかしたら覚えられるかもしれないが、図書館の利用はしばらく無理だろう。
まだ読んだことのない本に思いを馳せていると、トーラスが穏やかな眼でケイを見下ろし、労りの言葉を口にする。
「今日は初めての外回りだったが、よく頑張ったな。昼飯はお兄さんがなんでも奢ってやるよ。と言っても、安価な食堂だけどな」
「え、あ……ありがとうございます」
「育ち盛りなんだから遠慮せずにしっかり食べろよ」
思わぬ申し出に、思わず断ることも忘れて感謝を伝えたが、よくよく考えればケイはまだ花屋で給金を受け取っていない。つまり、こちらの世界で使える貨幣を持っていないということだ。きっとトーラスもそれをわかっていて気を利かせてくれたのだろう。
その事実に気付き、申し訳なく思ったが、これまでのやり取りから、素直に甘えてしまったほうが世話焼きな先輩は喜ぶこともなんとなく察してきていた。故にお礼の言葉を引っ込めるようなことはせず、ケイはまた一度、頭を下げて感謝の気持ちを表した。
たくさん歩いたおかげなのか、朝ご飯にサンドイッチをもらって食べたのに、ケイにしては珍しく昼食も食べられそうな腹具合になっている。これならご馳走になっても失礼にならない程度には食べられそうだった。
そうしてお腹を空かせたふたりは食堂を目指し、協会への道を戻り始めた。配達中はよく歩いた気がしたけれど、寄り道せずに真っ直ぐ協会へ向かえば、大した距離はないことがわかる。行きは配達先を一軒ずつ訪ねるために街を大きくまわっていたのだろう。その必要もなくなった今、協会への最短ルートを歩んでいるに違いなかった。実際、居住区に比べ、小高い場所に位置しているせいもあり、協会はすぐにケイの視界へ戻ってきた。
多少、歩き疲れた脚でも問題なく帰ってきた協会内は、昼時も終わりかけているせいか、来た時よりも人通りがいくらか落ち着いていた。件の食堂はエントランスを抜けた先、協会の北側にあるらしい。途中、受付嬢のデイジーへ手を振り、リヤカーを専用の車庫に——他にも移動販売をおこなう業者がいるようで、隣りには荷台を引く動物のために獣舎が併設されていた——預け、ふたりは北の通路へ向かった。
ここまでに色んな種族の人たちを目にしてきたおかげで、今では道行くファンタジーな人々を見ても特に驚くことはない。我ながら慣れるまでのスピードが尋常ではないが、郷に入っては郷に従え、もしくはローマにいる時にはローマ人のように振舞え、とも言う。これから花屋でアルバイトを続けていくのだから、早く慣れるに越したことはないだろう。
そうして何気なく周囲を眺めながらトーラスと並んで歩いていると、ふと妙に目立つ集団を視界に捉えた。集団といっても数人の男たちが連れ立っているだけのことなのだが、揃いの鎧を着込む獣人たちはやけに目を引く。すると、ケイの視線に気付いたのか、その中のひとりがこちらを見た。
「あ」
声をあげたのは一番小柄なイヌ科の獣人だった。しかし、それに釣られて同じようにこちらへ目線を向けたもうひとりの獣人——豊かな金色の毛並みをしたライオン顔の大男が、何故だか盛大に顔を歪ませ、何かに駆り立てられるようにして動き出した。その歩みは明らかにケイたちへ向けられている。
肩を怒らせる大型肉食獣の迫力は凄まじく、ケイの体は途端に強張り、足がその場に縫い止められてしまう。迫りくる大男の後ろでは、先ほど声を上げた小柄な男が「おい、待てって」などと焦った様子で制止をかけているが、当のライオン男は聞く耳を持たない。猛る勢いのまま、どんどんと距離が詰められていく。
「しまったな」
ケイの隣りでトーラスが小さく呟いた。その声色は焦りこそ感じないが、弱ったような響きをしている。だが、いつだって落ち着いている彼はすぐに腹を括ったようだ。
「こうなったら仕方ないか。ケイは少し下がってな」
そう言ってケイを壁際へ寄せ、自分は盾になるように一歩前に出る。そんなトーラスの正面へ、ついに間近まで接近したライオン男が立ちはだかった。
長身のトーラスよりもさらに頭ひとつ分ほど大きな獣人は、その面差しに滲む侮蔑の色を隠そうともせず低い声で唸った。
「……相変わらずの偽善者面だな、牡牛革。今度は白昼堂々と子どもに手を出しているのか? この尻軽が」
「仕事中だよ。新人教育ってやつだ。だからってわけじゃないが、あんまり教育に悪い言葉は聞かせないでやってくれないか。アスラン」
向かい合って早々、信じ難い罵声を浴びせかけられたにも関わらず、トーラスは怒るどころか平静さを失わない。けれど、ライオン男——アスランはそんなトーラスの様子が気に入らないのか、ますます顔を歪ませ、吐き捨てた。
「その口で俺の名を呼ぶな。虫唾が走る」
「そりゃ悪かった。けど、今日のところは勘弁してくれよ。繰り返し言うが、仕事中なんだ。お前もそうだろ?」
「魔女に尾を振る労働牛風情が俺に指図するな」
「……牛が尾を振るのは犬のそれとは意味合いが違うんだが……」
「は?」
「いや、すまん。口が滑った」
「お前、俺をおちょくっているのか?」
「まさか。もうそういう仲じゃないだろ、俺たちは」
流れるようなやり取りの最後にトーラスが何気ない調子で答えを返した次の瞬間。アスランの怒気が爆発的に膨らんだ。
立派な鬣が逆立ち、青い双眸が憎悪に燃えあがる。引き攣った口元からは太く鋭い牙が覗く。怒れる獅子は今にもトーラスに襲い掛かりそうだ。だと言うのに、ケイは恐怖に立ち竦み、動くことすらできない。
すわ暴力沙汰かと周囲の空気が張り詰め、ざわりと騒めく。だが、それを掻き消すように、突如、誰かがふたりの間に割って入った。
「はい、ストップ、ストップ~!」
場違いなほどに軽い声音と共にアスランの前へ躍り出たのは、先ほど彼を止めようとしてくれたイヌ科獣人の青年だった。ケイとそう変わらぬ体格の彼は臆することなく百獣の王の前に立ちふさがり、ふたたび制止の言葉を口にする。
「アスラン、もうやめとけって」
「お前には関係ない。どけ、ゼノ」
「いや~そういうわけにもいかないだろ。同僚が善良な一般人に喧嘩売って、また始末書を書く羽目になるのはオレとしても心苦しいし?」
「……喧嘩なんて売っていない」
「傍から見たらそういう風にしか見えないから。だからやめとけって言ってんの。ルーも何か言ってやれよ」
ゼノと呼ばれた青年は根気強く説得を試みて、もうひとりの連れであるオオカミ獣人をせっついた。遅れてやってきた白銀の毛並みの青年ルーは、いまだにしかめっ面をしているアスランを見据えると、マズルを覆う黒いマスクの下で端的に此度の責任の所在を示した。
「今のはアスランが悪い」
きっぱりと言い切られ、大きな舌打ちが通路に響く。第三者の存在によって幾分か冷静さを取り戻したらしいアスランは、それでもまだトーラスへの憤りが収まりきらないのか、激しい怒りを無理やり抑えつけた険しい声で彼を詰る。
「……二度と顔を見せるな。猫かぶりの偽善家が」
「俺にも仕事があるからそれは難しいな」
「クソッタレ」
平然とした顔で返すトーラスへ最後に口汚い罵倒を浴びせかけ、アスランが踵を返し、去っていく。迫力満点のいかり肩が遠退き、張り詰めていた辺りの空気がわかりやすく弛緩した。
ケイもいつの間にか止めていた息を細く吐き出し、恐怖に凝り固まった身体を僅かに緩める。すると、同じようなタイミングで、飄々とアスランを諫めていたゼノが、今しがた見せた勇敢さをかなぐり捨てて情けない声を漏らした。
「ひえ~……トーラスも煽んのやめろって……毎度ひやひやするぜ……」
「ん? 煽ってたか?」
「も~やだ、こいつら……」
珍しく頓珍漢なことを言うトーラスへ、ゼノが情けない声を上書きする。しかし、切り替えの早い性格をしているらしい彼は早々に立ち直り、今回の顛末をざっくりとまとめた。
「……ま、最初におっぱじめたのはアスランだしな。仕事中に邪魔して悪かったな、トーラス。次はオレももうちょいうまくやるよ。じゃーな」
「ああ、こっちこそ手間かけさせて悪かった。ルーもまたな」
ひらりと手を振って去るゼノと、その後を無言のままついていくルーを見送り、トーラスが小さく息を吐く。そこには隠しきれない心労が滲んでいたが、彼はすぐにそれを心の内へしまい込み、壁際へ避難させていたケイへ向き直った。
「悪いな、ケイ。驚いただろ」
「いえ……あの……俺、何もできなくて……」
ようやく声を出せるようになったケイは肩を落とし、目を伏せた。大型の肉食獣が迫りくる状況は、基本的に誰にとっても恐怖を感じるものだとはわかっている。けれど、あの言い草はあまりにもひどかった。それなのに隅で怖がるばかりいて庇うことはおろか、言葉ひとつ発せなかった自分が情けない。
しょんぼりと落ち込むケイを、トーラスはやはり穏やかな眼で映した。そして、今しがたひどく罵倒された張本人であるくせに、まるで子どもをあやすように慰めてくるのだ。
「いいんだよ、お前は何もしなくて。これは俺とあいつ……アスランの問題だからな」
そう言う彼の面差しはいつもとほとんど変わらない。ただ、そこにほんのちょっぴり寂しげな色を見た気がして、ケイは胸がキュウと絞めつけられるような心地がした。だが、その翳りが見えたのは一瞬のことだった。
「とにかく食事にしよう。腹が減ってはなんとやらって言うだろ」
ふと微笑んだトーラスが明るい声を出した。落ち込むケイを励まそうとしたのは明らかだった。ひどい目にあった当事者から励まされるなんて、なんともおかしな話だが、彼の面差しは既に憂いの欠片も感じさせない。
だから、これ以上トーラスに気を遣わせないため、ケイは小さく頷き、歩き出した。その足取りは重く沈んでいたけれど、隣りを歩くトーラスの歩みはやはりこれまでと何ら変わらないものだった。




