ネロ
翔の働くネロ、イタリア語で「黒」を意味するらしい。
高校卒業してすぐだった、社員登用有りの文言に飛びついた。
学力はなんとか赤点回避でギリ卒業、素行は悪くない部類だが不器用が目立ち特筆すべき点が無い自分には選べる選択肢も限られていた。
別に飲食を馬鹿にしてはいない、だが働き口としては飲食や工事現場くらいなのが現実。
「やるしかないから」と未経験のまま飛び込んだ。
「店長の東 です、大坂君だっけ?来週から来てくれる?」
面接から採用まではあっけなかった。
そこからはとんとん拍子に事が運び、親は喜んで支援してくれた。
裕福でない家なのはわかっていた、母だけで支えてくれた家なのだ。
父は居ない、亡くなったかどうかも知らないけど良いイメージは無かった。
母は何も言わないが父が関与した事が原因で、長い事知らない大人が入れ替わり立ち替わり来ていたのは覚えている。
そんな母に出来る限り色んな事を早く返したかった。
店の近くの安アパートに一人引っ越し、アルバイトからネロの勤務が始まった。
「見習いだから厳しいよ、でも君の為だからね」
店長の東は最初にそう言い洗い物と掃除から教わった、正確には押し付けられたになる。
何人かスタッフを経由して作業をなんとかこなしていた。
ふと見えたキッチンは和気藹々と談笑しながらオシャレな料理を作っている、反対のホールを見ればキラキラとした空間で決まったスーツみたいな制服でカッコいい。
社員になれば、いつかはこの中に入って……そう思い三ヶ月の使用期間が過ぎた。
決して明るいとは言えない洗い場の空間が定位置だった、誰に見られる事もなく洗う音しか聞こえない。
そんな静寂に店長の東が来た、滅多に足を踏み入れないのに珍しい。
「大坂、使用期間終わっちゃうから社員扱いになっちゃうよ。明日判子とか用意しといて」
少し違和感を感じたが、念願の就職をゲットした。
翔は拳を握った。
諸々の手続きを終えて東は言った。
「来月から社員だけどやる事増やすからな、店の開け閉め追加するから」
そう宣告されて、本格的に翔の朝誰よりも早く来て夜最後に帰る生活が始まった。
おそらくだが、もう少し考える事が出来たなら、違和感の正体にすぐ気付いたのかもしれない。
初めは見習いとして、だが社員として皆の当たりがキツい物だと受け入れていた。
修行中だから一番長く店に居ると思っていた。
翔は耐えた、普通なら逃げても文句は言われないような環境だ。
賃金も最低のままだが貰えるだけ良い。
——社員になり一年半が過ぎた頃だった。
「どうも今日からお世話になります南です、よろしくお願いします!」
「南君は、かの有名調理学校の首席卒業なんだ未来のエースとして期待してるぞ!」
後輩が入った、しかもすぐに溶け込み眩しく優秀な。
初めから店長自ら調理技術を教えている、自分の扱いとは大違いだ。
それでも翔はやるべきことをやり続けた、店長含めスタッフ皆料理や接客の表には力を注ぐが裏の扱いは杜撰であった。
後輩の南も最初こそ戸惑いを見せたがすぐに染まった、この店の裏は全て翔がやる役割なのだ。
腐りはしなかった、ただ誰かと喋りたい欲はあった。
もう二年になる、母は元気だろうか?連絡はあまり取らないようにしている。今繋いだら溢れるかもしれない、そうなれば余計な心配を掛ける。
店長の東は必要最低限しか接触出来ない、料理とサービスの評価は高い店……そこを手掛ける者として様々な取材で殆ど居ない。
スタッフは翔を明らかな異物として見ている、だが便利には違いないので触れず離れず。
後輩の南も最初だけは構いに洗い場に来たが、何か吹き込まれたのか次第に来なくなった。
その環境をはっきりと認識してしまったのが二年経った今だ、だけど誰も恨まないしやるだけの事をやるだけと言い聞かせていた。
そして出会ったマサムネと言う話し相手、まさか相手が猫とは来るとこまで来たんじゃないかと思う。
しかしながら、野良猫の癖に頭は良さそうである。
なんだか難しい言葉も知っている、なにより無愛想ながら翔をしっかり見て喋るのが分かった。
嬉しいものだ。
風景では無く一人間として見られるのは嬉しいのだ。
少しずつ翔の心に色鮮やかな芽が生えてきていた。




