心待ち
「全体練習を始める前に」
店長北見は皆を集めて注意事項を告げる。
「動く範囲が広がるしオープンすればお客さんが存在する、アルコバレーノの料理はとにかく熱を持つ料理ばかりだからね、最大限イメージと注意をするように」
「はい!」
今日から一週間に及ぶ全体シミュレーションが始まる、北見の言葉に翔も南もピリッとした空気を味わう。
「最初はどうしても二人はフロアになるからね、トレーの持ち方や物の運び方、提供が安全に出来るかを意識してね」
祥子がトレーを二人に渡しながら言っていく、普段の明るく元気な姿とは違い凛としたかっこ良さが見える。
「祥子は接客もトップレベルだよ〜ピッツァのついでに接客部門も入賞するレベルさ」
北見の言葉に翔は二度見した、ついでで取るもんなんなだろうか?
南を見ると少し緊張感を漂わせている。
「おい、南震えてんぞ」
「いや、僕前に出て接客って実は初めてで」
「あら?じゃあ教えがいがありそうね〜翔君は?」
「俺も実は初めてですけど……ずっと見ては居ました」
翔は前職の店、ネロで洗い場に二年閉じ込められながらも見る事は辞めていなかった、それがどこまで通じるかだが。
「それじゃあまずは全ての基礎からね、それは心構え」
「こころ……」
「がまえ……?」
「そうよ、二人とも綺麗にカッコよく置くなんて後よ、まずは安全にお客さんとの距離を適切に保つ事が第一歩なの」
距離を保つと言う事は当たらないようにとか、危ないと思わせる事が無いようにとの事なのか?
「あの、お客さんとの距離とは……?」
南が質問する。
「例えば一人のお客さんが来店しました、静かな端の席を好み本を持つ、貴方達ならどう感じる?」
「それは……ちょっとそっとしとくかな?」
「ですね、邪魔しちゃ悪いし」
「それが距離よ、物理的じゃなく心理的な距離を見極めるの、勿論オーダーや料理提供でくっつくシーンはあるけど心掛けで言葉や声量も変わるわよね?」
祥子の言いたい事は分かる、心の距離は定規で数値化出来ないからぼんやりだが距離感を保つと言う事だろう。
「貴方達は今まで見てきてそう言う静かなタイプは問題ないでしょうね、問題はお酒に酔ったりしてグイグイ来ちゃうタイプが弱点になるかも」
「う、確かに引いちゃうかも……」
「僕も……」
翔も南もどちらかと言うと真面目系タイプであり、騒いでしまうお客さん相手には弱そうな面はある。
まして南はまだ十九歳なので、お酒の入った相手はあまり近寄らせたく無い。
「経験を積めば対処するやり方も身に着くから、今は出来る範囲でお客さんとの距離を大事にしなさい、さて実務としては……」
水の入ったグラスを乗せたトレーが用意される。
「ここからどんどん乗せていくからね!」
一つが二つに三つに、更にパスタの皿を乗せたり……
ありとあらゆる物を持ち店内をひたすら歩き回る、それで一日が終わってしまった。
そのおかげで物運びは自信が付いていた。
「意外と持てるもんですね」
南が笑う、そして……
「はい!才賀君ワンアウトー!」
祥子からアウトを取られた南はえ?と言った顔をする。
「物運びの最大の落とし穴が今の緩みよ」
「ゆ、緩み……」
「才賀君は慣れてホッとした時に危険度が跳ね上がったの、普段はなんて事無い僅かな揺れが物を落とす可能性を引き上げる、それがもしお客さんに向けてだったら……」
考えたくも無い事だが、確かに起こりうる事態だ。
南も痛いトコを刺されて気合いを入れなおす。
「ふふっ、逆に言えば心持ちをしっかりしていたら防げるってことね」
祥子は笑う、流石に接客術に長けているし指導力もある。
「ところで隼人一日何やってたの?」
「だって今日は出る幕無いから僕は僕で自主トレさ〜もうお客さん来てもパスタ出るよ」
「ま!私に丸投げして!」
「嬉しそうに若い子教えてるじゃない〜」
「あら?嫉妬してるの〜?」
なんだかイチャイチャしだしたのはいつもの事だ。
後は南と二人で自主トレに励んだ。
「はい!では今日は終わり!お疲れ様だね〜」
「基礎は固めたから明日からは実際に来客シミュレーションに入るわよ!」
「はい!よろしくお願いします!」
「明日もお願いします!」
少しずつ見えてきたアルコバレーノの形に南と目を合わせ頷く。
基礎は学んできた、ここからトレーニングを重ねて来週のオープン。
翔は胸が高鳴り眠れそうに無かった。




