第9話
社務所での異様な朝食を終え、俺は逃げるように空木神社を後にした。
胃の中には、さっき平らげた『梔子飯』がずっしりと収まっている。薬草のような甘い香りを思い出し、俺は口元に少し手を当てた。美味かったはずなのに、なぜか異物でも飲み込んだかのような気だるさがある。
神社を出て村の中心部へと戻る頃には、朝の深い霧が少しずつ晴れ始めていた。
視界が開けたことで、ようやく村の全容が少しずつ見えてきた。スマホのカメラを取り出し、ルポのネタになりそうな風景をパシャパシャと撮影しながら、メインストリートらしき道をあてもなく歩く。
道中、すれ違う村人たちは皆、農作業に向かう途中だったり、家の前を掃除していたりと、いかにも田舎の朝らしい穏やかな風景だ。俺が軽く会釈をすると、誰もが丁寧に、静かに頭を下げて返してくれた。
だが、その誰もが、トウジさんやイツキさんと同じような『整いすぎた左右対称の顔』をしている事実が、じわじわと俺の神経を削ってくる。
「…それにしても」
俺はふと足を止め、周囲を見渡した。
違和感の正体の一つに、ようやく気がついた。
「子供が、おらへん…」
限界集落だから高齢化が進んでいるのは当然だ。だが、それにしても異常だ。
道端に放置された三輪車や、各家の前の子供用自転車といった『子供が存在する痕跡』が、この村には一切見当たらないのだ。すれ違うのは初老の人間か、せいぜい俺より上の世代ばかり。
赤ん坊の泣き声も、子供の甲高い笑い声もしない。この村の静けさは、単に人が少ないからではなく、なにかの意志さえ感じるような、死のような静寂だった。
そんな薄ら寒さを感じながら歩いていると、周囲の古民家とは明らかに異質な、平屋の白い建物が目に入った。
『梔子村 第一診療所』
木製の看板にはそう彫られている。外壁は真っ白で、窓ガラスには汚れ一つない。建物の作り自体は古いが、やはり不気味なほど清潔だ。
ちょうどその時、診療所のアルミの引き戸がガラリと開き、中から白衣を着た女性が出てきた。手には小さなほうきと塵取りを持っている。どうやら朝の掃除らしい。
「あ、おはようございます」
目が合った俺は、愛想笑いを浮かべて軽く声をかけた。
年齢は俺と同じくらいか、少し上くらいだろうか。色素の薄い、透き通るような肌。そして何より、彼女もまた例に漏れず、あの『計算され尽くしたような左右対称の顔』をしていた。
俺の挨拶に対し、彼女は怪訝な顔一つせず、ただスッと美しく、丁寧にお辞儀をした。
だが、彼女の口から「おはようございます」という言葉が返ってくることはなかった。
「あ、すんません。俺、昨日からお試し移住で長屋に泊まらせてもらってる、浦部ケイ言います。ちょっと村の中を散策してまして」
俺が少し気まずくなって世間話のように言葉を継いでも、彼女は柔らかな微笑みを浮かべたまま、ただ静かに頷くだけだ。
なぜ、声を出さないのだろう。彼女の耳には、俺の声はしっかりと届いているはずなのに。
「あの…」
俺の怪訝な視線に気づいたのか、彼女は白衣のポケットから小さなメモ帳とペンを取り出すと、流れるような動作で何かを書き込み、俺の方へ向けて差し出した。
綺麗な丸文字で、こう書かれていた。
『ようこそ梔子村へ。浦部さんですね。村長から伺っております』
『私、生まれつき声が出ないのです』
声が、出ない。
その文字を読んだ瞬間、俺の脳裏に、さっき神社で聞いたばかりのリンドウさんの狂気じみた声がフラッシュバックした。
『この時代に、この村に、三戒が同時に誕生した。これは単なる偶然ではありません――』
見ざるの、足立 イツキ。
聞かざるの、細見 アヤメ。
そして目の前にいる彼女は。
(言わざる…!)
俺はごくりと唾を飲み込み、白衣の胸元につけられたネームプレートに目を落とした。
『助手:酒井 スミレ』
彼女が、三戒の最後の一人。
心臓が嫌な音を立てていたが、初対面の相手にあからさまに動揺を見せるわけにはいかない。俺は慌てて引きつった頬の筋肉を緩め、努めて冷静に声を出した。
「あ、酒井さんですね。いやぁ、この村はほんまに静かでええとこですね。ただ、ちょっと寒さが堪えますけど」
スミレさんはニコリと微笑み、手元のメモ帳にサラサラとペンを走らせる。
うつむいた彼女の、短く綺麗に切り揃えられたショートヘアの隙間から、耳がちらりと覗いた。その耳の先端は、所謂ファンタジーのエルフとまではいかないが、普通の人よりも少しだけ上に向かって尖った形をしており、俺の目を惹いた。
顔を上げた彼女が、俺にメモを向ける。
『今年は特に冷え込みが厳しいですから。お風邪など引かれませんように』
『それに、その言葉、響きがとても柔らかくて素敵ですね』
「えっ…あ、ありがとうございます。神戸から来まして…田舎もん丸出しで、ちょっとお恥ずかしいですけど」
文字だけで伝えられる純粋な好意に、俺は思わず鼻の頭を掻いて照れ隠しをした。
言葉を発せない彼女にとって、「他人が喋る言葉の響き」というのは、俺たち以上に特別なものに聞こえるのかもしれない。
(方言といえば、この村の人は標準語に近い言葉を皆喋っとったな…関西やし、訛りがあってもおかしないけど…)
気になることが多すぎる。だが、まずは直近の、村の違和感を聞いてみることにした。
「…あ、せや。ちょっと気になったんですけど。さっき村を歩いてても、子供の姿を全然見かけへんなぁって。学校とかもないんですか?」
少しだけ距離が縮まった気がして、俺は限界集落のルポのネタ集めのつもりで問いかけた。だが、スミレさんのペン先が一瞬だけ、ピタリと止まったのを俺は見逃さなかった。
彼女は少しだけ伏し目がちになり、先程よりもゆっくりと文字を綴る。
『この村には、もう子供はいません。一番若い子でも、私と同じ二十代半ばになります。学校も、とうの昔に廃校になりました』
「あぁ…なるほど。そりゃ寂しいもんやなぁ」
俺の適当な相槌に、彼女はただ静かに頷いただけだった。
その整った左右対称の顔には、悲壮感も、過剰な愛想笑いもない。ただ淡々と、この村の『終わっていく事実』を受け入れているような、凪いだ表情だった。
「まあ、俺はとりあえず二週間だけ滞在する予定ですけど、もしホンマに風邪でも引いたら、ここにお世話になりに来ますわ」
『ええ。何事もないのが一番ですが、もしもの時はいつでも』
ぺこりと上品に頭を下げるスミレさんに軽く手を振り、俺は診療所を後にした。
言葉を持たない彼女との筆談は、都会のテンポに慣れきった俺にとっては酷くもどかしいものになるかと思ったが、不思議とストレスは感じなかった、いやそれどころか、楽しくすらあった。
だが、それでも。
トウジ、アヤメ、リンドウ、イツキ、そしてスミレ。
全員が気味が悪いほど同じ「完璧な顔」を共有している。
そして村の中に『見ざる・聞かざる・言わざる』の欠損者がすべて揃っているらしいこの状況。
(やっぱり、この村…何かがおかしい)




