第8話
だが、食べないわけにもいかない。
意を決して、潰れた目を持つめざしに箸を伸ばし、頭からかじりつく。
――美味い。
塩加減が絶妙で、噛むほどに凝縮された旨味が口の中に広がる。すかさず、あの異様な黄金色の『梔子飯』を口に運ぶ。
ほのかな甘みと、不思議だが、鼻に抜ける爽やかな香り。見た目の毒々しさとは裏腹に、驚くほど上品で奥深い味わいだった。こんな不思議な食べ物があるのか。長屋に帰ったら、さっそくルポに書かなければ。
昨日からサンドイッチだけだったから夢中で食べ進めていたが、気持ち悪いほどに静かな和室に、俺の咀嚼音だけが響き渡っている気がした。
前のリンドウさんも後ろにいるイツキさんも確かに食事を進めているのに、彼らからは箸の音も咀嚼音も一切しない。まるで音を立てること自体が重罪であるかのように、完全な無音のまま食事を摂っているのだ。
急に、俺一人が、静寂の空間で下品な音をまき散らしているような錯覚に陥った。
たまらず、咀嚼の動きを小さくし、喉を潤そうと右手を伸ばす。お茶の入った湯呑みを取ろうとして、指先が不格好にお膳の縁にカツンと当たってしまった。
「…お茶でしたら、もう少し右手にございますよ、ケイさん」
不意に、下座のイツキさんが静かに言った。
見ると、彼は一切こちらに顔を向けていない。完全に両目を閉じたまま、俺の指がどこにあり、何を探しているのかを完璧に察知していた。
「あ、す、すんません。ありがとうございます」
湯呑みを手に取りながら、俺はたまらず口を開いていた。
「あの…失礼なこと聞くかもしれないですけど。イツキさんって、その…目は」
「ええ」
答えたのは、イツキさんではなく、正面に座るリンドウさんだった。
彼は箸を置き、穏やかな、そしてどこか誇らしげな笑みを浮かべてこちらを見つめた。
「イツキの双眸は、生まれつき光を感じることができません。外界の景色を、何一つ見たことがないのです」
「生まれつき…」
「はい。ですが、私はそれを不憫だと思ったことは一度もありません。むしろ、神に愛された、この上なく幸福な『器』だとさえ思っています」
幸福な器。
息子が目が見えないことを、この父親は心底から誇りに思っているようだった。
「ケイさん。世の中は、あまりにも多くの『穢れ』に満ちています。普通に生きているだけで、視覚から穢れが入り込み、心を汚していく」
「…」
「ですが、イツキの目からは、そういった外界の穢れが一切入り込みません。この村で、風の音、鳥の声だけを聞いて育った。だからこそ彼の魂は、一切の濁りがない純粋な透明を保っているのです」
リンドウさんは、慈しむような目で下座の息子を見た。
「先ほど、『三戒』の彫刻をご覧になったでしょう。あれと同じです。世俗の穢れを、生まれつき視認しない。それは神にお仕えする者として、最高に清らかな資質なのですよ」
三戒、とは三猿のことだろうか。
だから、この神社にはあんな不気味なレリーフが彫られていたのか。全ては『穢れを物理的に遮断する』という、この村独自の信仰の象徴。
――だとすると。
俺の頭の中で、一人の女性が思い浮かんだ。
「もしかして…村長の娘さん、あの、アヤメさんも耳が聞こえないって…」
恐る恐る尋ねたその瞬間。
リンドウさんの顔から、それまでの穏やかな神職としての仮面が剥がれ落ちたように、その表情が異様な熱を帯びてぱっと明るくなった。
「よくぞ気付かれた!」
声のトーンが一段上がり、和室の空気がビリッと震える。
「そのとおり。彼女もまた『見ざる』のイツキ同様、『聞かざる』を体現する存在です。視覚と同じく、聴覚もまた外界から穢れが流れ込む恐ろしい器官。世間に溢れる嘘、偽り、罵詈雑言。それらを彼女は生まれつき、一度も音として聞いたことがない。すなわち、彼女もまた神に選ばれた無垢なる『器』なのです」
リンドウさんの目は、もはや俺を見てはいなかった。
虚空の彼方にある、彼らにしか見えない『神聖な何か』を見つめるように、天啓を受けたような陶酔の表情を浮かべている。
「この時代に、この村に、『三戒』が同時に誕生した。これは単なる偶然ではありません。もはや、失われた『開祖の再誕』を意味するの――」
「宮司」
狂気を孕んだ熱弁を遮ったのは、氷のように冷たく、低いイツキさんの声だった。
下座に座るイツキさんは、両目を閉じたまま微動だにせず、ただ口元だけで父親を鋭くたしなめた。
「ああ…すみません、ケイさん。少々、熱が入ってしまいました。ささ、食事が冷めてしまいます。続けましょう」
我に返ったようにリンドウさんが咳払いをする。
だが、俺の心臓はひどく嫌なリズムで跳ね続けていた。
(三猿って…《《そないな》》教えやったっけ…)
それは本来、「他人の欠点を見ない、聞かない、言わない」という人生の教訓のはずだ。決して、目や耳の機能を失った人間を「神聖な器」として崇め立てるような教えではなかったはずだ。
見ざる、のイツキさん。
聞かざる、のアヤメさん。
リンドウさんは『三戒が同時』に、と言っていたので、この村には『言わざる』も何処かにいるのだろうか。
俺は湧き上がる疑問と、腹の底に重くのしかかるような居心地の悪さを抱きながら、まるで砂を噛むような思いで、残りの黄金色の『梔子飯』を胃袋へと流し込んだ。




