第51話 G
取り乱し、過呼吸を起こしかけていた母親のために、病院の職員が空いている個室の病室を手配してくれた。
パイプ椅子に座らされた母親は、相変わらずガタガタと激しく全身を震わせている。
「なんやねん、おかん。どないしてん」
狼狽する母親に、声をかける。
「ケイ、あんた、あの子…梔子の…ちゃうんか」
「…」
重い沈黙が落ちる。
背中にじっとりと冷たい汗が伝い落ちた。
「せっかく逃げてきたのに…せっかく…どこまでも、追ってくるんや…」
母親は頭を抱え、ひゅう、と引き攣った呼吸を繰り返す。
「落ち着きや。スミレさんは、確かに梔子村の人や。でも、もうなんも関係あらへんねん。俺らはあそこから逃げてきたんや」
自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐが、胸の奥底に空いた巨大な穴から吹き抜ける虚無感はごまかせない。
「それだけやない…」
母親が虚ろな目で呟きかけた、その時。
コンコン、と。
冷たい金属の扉を叩く音が響き、先ほどの男性医師が顔を覗かせた。
「浦部さん。大変なところ恐縮ですが…大事なお話です」
「…はい」
医師の額には微かに脂汗が浮かび、その視線はひどく落ち着きがない。
「お子様のことですが…恐らく、無動無言症…精密検査の結果次第ですが…」
むどうむごんしょう。
聞いたこともない病名が、鈍器のように脳天を殴りつけた。視界がぐらりと歪む。
「それは、どういう…」
「目は開いているのに、自発的な運動や発声が一切ない状態を指します…」
医師の言葉の間に生じた、息の詰まるような戸惑いと沈黙。冷え切った空気が、喉の奥を塞いでいく。
「つまり…?」
「意識はあるが、自我はない状態…とでも申し上げましょうか…。まずは、私どものほうで詳しい検査をいたしますので」
「…よろしくお願いします」
そう言い残すと、男性医師は逃げるように小走りで去っていった。
自我がない。自ら動くことも、言葉を発することも、感情を示すこともない、ただ呼吸するだけ。
俺とスミレさんの愛の結晶は、空っぽの空洞だとでもいうのか。
「おかん…おかん?」
ふらつく足で母親の方を振り向くと、彼女はパイプ椅子の上で全身をガクガクと震わせ、虚空のあらぬ方向を凝視していた。
「おかん、おい、おかん!」
「…拒まざる…」
「…え?なんて…」
「開祖の再誕…『拒まざる』が……」
ぴたりと。
心臓の鼓動が、一瞬止まった気がした。
「おかん、なんやねん、それ!おい!『梔子沈黙律』と、『三戒』となんか関係あるんか」
「ケイ…四猿目や…至極の戒…『拒まざる』」
その瞬間、脳裏に雷が落ちたように、かつて村で見たあの古びた手記の記憶がフラッシュバックした。
視の戒、聴の戒、言の戒。
見ざる、聞かざる、言わざる。
…だが、あの手記には不自然に破り取られたページがあった。あの空白のページにこそ、本当の狂気が記されていたのだ。
「母親に…フジにずっと、繰り返し繰り返し、頭がおかしくなるまで教えられとったんや…今でも《《そら》》で言えるわ…それが嫌で、狂いそうで逃げてきたのに…」
母親の目から、ボロボロと生気のない涙が溢れ落ちる。
周囲の空気が急速に冷え、無機質なはずの病室に、あるはずのない梔子の実の不気味な匂いが充満し始めた気がした。
「教えてくれ。その、『至極の戒』」
俺は、自分自身の完全な破滅を乞うように尋ねた。
それから、母親の震える口から語られたのは、破られたページに記されていた完全な『梔子沈黙律』であった。
見ず、聞かず、言わず。
そして、拒まず。
一切の自我を持たず、己の運命と交わりをただ受け入れるだけの存在。
俺と、スミレさんの間に生まれた、我が子。
意識はあるが、自我はない。
何も望まず、何も拒まない。
純粋無垢なる血の器。
まさにそれは、梔子村が何百年もの間、濃い血の果てに待ち望んでいた究極の悲願。
『三戒』を超える、おぞましい奇跡。
四猿目である、『拒まざる』。
あの顔のない開祖の、完全なる再誕の姿であった。
【END⑤ 開祖の再誕】
本編を最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。もしよろしければ、はじめにどのエンドにたどり着いたか、コメントやレビューで教えていただけますと嬉しいです。
是非次の頁にある経典『梔子沈黙律』の全容もお楽しみください。
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