第50話 G
兵庫県、某所。
「じゃあ、行ってくるわ」
アパートの狭い玄関。いつも通り、俺は硬い革靴に足を靴べらで無理やり押し込んだ。
俺は村から戻った後、不安定なWebライターという職を辞め、ある外資系企業の営業として働き始めていた。
まだ下っ端で、毎日目が回るような忙しさだが、確かなやりがいがあった。
「いってらっしゃい」という声は返ってこない。だが、振り返ればそこには、小さく手を振る、愛する妻、スミレさんが立っていた。
籍を入れてはいなかったが、事実婚という形で、俺たちはこうしてひっそりと同棲している。
決して裕福ではない。だが、穏やかで幸せな暮らしだった。
そして何より、彼女の少し膨らんだお腹の中には、俺の、彼女の、子供が居るのだ。
それだけで、どんな理不尽なことだって頑張れる気がした。
「お腹も大きなって来とるから、無理したらあかんで。調子悪なったら、すぐ俺に電話するんやで。あと――」
心配性な俺が言葉を続けようとした、その時。
彼女の柔らかな唇に、その先の言葉を塞がれてしまった。
彼女は困ったような、それでいて愛おしげな表情で微笑むと、俺の背中をそっと押した。
その手は、石室で俺を励ましてくれた、あの手の感触に酷似していた。
(結局誰やったかはわからんままやけど、まぁ、ええか)
そんな詮無いことを考えるのは、やめだ。
この幸せな日々を送る俺に、そんなものは雑音に過ぎない。
俺は再び玄関へと向き直る。
「ごめんごめん、行ってきます」
玄関のドアを開ける。冷たい朝の空気を吸い込む。
今日も、俺の幸せな一日が始まるのだ。
◇
数カ月後――。
蛍光灯の光が照らす、あるレディースクリニックの一室。
ついに、その日を迎えた。
陣痛が始まり、分娩室へと運び込まれた彼女と入れ違いになるように、慌ただしい足音を立てて母親が病院に到着した。
母親にはつい先日、彼女と同棲していること、そして子供が生まれることをようやく打ち明けたばかりだった。突然の報告に酷く驚いてはいたが、最後には心から喜んでくれたのだ。
「アホ、あんたは大事なことも言わんと…」
待合室のベンチに座るなり、母親は少し涙ぐんだ声で俺の肩を叩いた。
「ごめんて」
「一時期、携帯も繋がらへんかったし…ほんまに、何かあったんちゃうかって、心配したんやで…」
母親の震える声に、少しだけ胸がチクリと痛む。
「でも、俺もこうして今は正社員や。彼女とは色々とあって籍は入れてへんけど、三人で頑張っていくつもりや」
「…当たり前やろ、アホか。…ほんま、誰に似たんか…」
「おかんちゃうか」
「うっさいわ、アホ」
鼻をすする音と、そんな何気ない親子の会話。
張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ解れた気がした。
だが、その安堵は一瞬で打ち砕かれることになる。
バタバタバタッ――
血相を変えた看護師が、青ざめた顔をした女性が、待合室にいる俺の下へと駆け込んできた。
その額にはじっとりと脂汗が浮かび、目は異常なほどに見開かれている。
「う、浦部さん…ですよね」
「そうですけど」
彼女の声は少しだけ震えていたが、何に対してなのかはわからない。
「お子さんが、お生まれに――」
「ほんまですか!ほんまに!」
思わず立ち上がり、歓喜の声を上げた俺。
だが、俺の喜びとは裏腹に、看護師は全く嬉しそうな顔をしていなかった。言いづらいことを無理やり言葉にするような、引き攣った表情を浮かべている。
「…とにかく、いらっしゃってください」
重苦しい沈黙の後、彼女はただそれだけを絞り出した。
俺と母親は顔を見合わせ、得体の知れない不安に急かされるように、看護師さんの後を追って分娩室へと足を踏み入れた。
中は、鼻の奥をツンと刺す強烈な消毒液の匂いと、生温かい血の匂いで充満していた。
ピッ、ピッ、という無機質な心電図の電子音と、慌ただしく何かをしている気配を感じた。
(なんや、えらい、せからしいな)
そこに、マスクをつけた一人の男性医師が現れた。
「浦部さん、ですね。奥様…スミレさんのお子さんのことですが…」
「生まれたんですよね?母子ともに、無事なんですよね?」
食い気味に問い詰める俺に、医師は視線を彷徨わせた。
「ああ、はい。無事、ですが…」
明らかに煮えきらない、何かをひどく恐れているような態度。
「…とにかく、いらっしゃってください」
医師に促され、俺と母親は部屋の奥、パーティションの向こう側へと進んだ。
そこには、分娩台に横たわるスミレさんと、何やらベッドで処置を行われる赤ん坊の姿があった。
「あの、これは一体――」
一歩、近づこうとした、その時。
俺よりも先に反応したのは、背後にいた母親だった。
「ひっ…!」
短い、空気が漏れるような悲鳴。
振り返ると、母親は目を限界まで見開き、顔面を真っ白にさせてガタガタと全身を震わせていた。彼女の視線は、赤ん坊ではなく、スミレさんの顔に釘付けになっている。
「あ、ああ…、あの、あの顔…おばあさん…」
歯の根が合わず、カチカチと音を立てながら、母親が狂乱したように呟く。
「おかん?どうした?何言うとるんや」
俺が肩を揺すろうとしても、母親は俺のことなど視界に入っていないようだった。
スミレさんの顔――あの、梔子の濃い血を色濃く残した、美しいがどこか人間離れしたその顔を見た瞬間に、母親の奥底に眠っていた何かが決壊したのだ。
「あああ…くちなしの…梔子のォ………ッ!!」
狂気に当てられたような母親の絶叫が、静まり返った分娩室に木霊する。
俺はまだ、あの村に、血に、囚われているのだろうか。




