第49話 F
俺は意を決して村役場へと足を運んでいた。
肌を刺す冷たい外気とは裏腹に、俺は自分の体の中に、何か得体の知れない熱を感じていた。
中へ入ると、そこはいつも通りの光景だった。アヤメさんや他の職員たちが、静かに、だが忙しそうに働いている。穏やかで単調な日常の風景。
俺の姿を見つけると、アヤメさんは作業の手を止め、にこりと無邪気な笑顔を向けてくれた。俺はゆっくりと彼女へ手招きをする。
ポケットから取り出したメモ帳に、ペンを走らせた。
『少し、話せませんか』
メモを受け取った彼女は、瞬きを数回繰り返した後、丸みを帯びた文字で書き返した。
『わかりました ちょっと まってて』
俺の纏う暗い雰囲気を察したのだろうか。彼女はそそくさと他の職員へジェスチャーで合図を送ると、再びこちらへ戻ってきて、付いてきて、と手で示した。
木製の階段を、ゆっくりと上がる。
静寂の中、二人の足音だけが鼓膜に響く。廊下を少し歩き、立ち止まったのは、「会議室」と古びたプレートが掛けられた部屋だった。
(スミレさんと、一緒に作業した部屋や)
彼女がガチャ、と冷たい音を立てて扉を開く。
中には誰も居らず、昼間だというのに酷く薄暗い。
アヤメさんがパチン、と電気をつけた。蛍光灯がジリジリと微かなノイズを鳴らし、無機質な白い光が部屋を満たす。
並べられた長机、そのパイプ椅子の一つに彼女がちょこんと座り、俺にもその横に座るよう、手で促した。
『どうか しましたか』
メモを示しながら、小首を傾げる彼女。その無垢な仕草と、部屋の澱んだ空気とのギャップが、俺の脳をじわじわと麻痺させていく。
すこし、間をおいてから、俺はペンをゆっくりと動かした。
『おれ、この村に、残ることにしました』
(彼女達の幸せを、この静謐な村を守ることができるんは、これだけや)
文字にすることで、自分への言い訳が確固たるものになっていく。
俺が犠牲になればいいのだ。そうすれば、この村はいつも通りの穏やかな春を迎えられるはずだ。俺さえ沈黙すれば、すべて丸く収まるのだ。
俺の諦念に満ちた心情とは裏腹に、彼女はそのメモを見るやいなや、ぱぁっと花が咲くような笑顔を見せた。
迷いなくペンを走らせる。
『ありがとう』
ああ。
その短く、無邪気な文字を見た瞬間、俺の心を覆っていた後悔という名の膜が、ドロドロと溶けていくのを感じた。どこまでも深く、心が落ち着いていく。
(無理に因習を終わらせることはないんや)
都会に戻ったところで、結局はいつも通りに孤独なだけだ。換えの利く、しがないライター風情に居場所など初めから存在しなかった。使い潰されて、誰の記憶にも残らずに捨てられるだけの人生。
だが、この村は違う。
この村は『俺』を必要としている。
確かに『俺自身』を必要としてくれている。
俺の居場所は、ここなんだ。ここしか、ないんだ。
この村こそが、俺の安息の地なのだ。
じっとりと汗で濡れていたはずの手のひらが、今は奇妙な温もりを帯びている。
深い、永遠のような沈黙が二人を包み込んだ、その時だった。
カチャリ、と。
会議室のドアが、音を立てて開かれた。
入り口に立っていたのは、トウジさんだった。彼の顔には、慈悲に満ちた、あの穏やかな笑みが貼り付いている。
「ありがとうございます、ケイさん…いや、こう呼ぶべきでしょうか…」
沈黙。
彼は俺を真っ直ぐに見据え、ゆっくりと、その名を口にした。
「浦部村長」




