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還る血の仔ら  作者: 邑沢 迅
9日目

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第50話 E

 兵庫県、某所。

 海からの潮風と排気ガスが混じった澱んだ空気が、どんよりとした思考をさらに曇らせる。


 俺と、シオンと、アズサさんは、街の片隅にあるこじんまりとしたボロアパートに引きこもるように、ひっそりと暮らしていた。


「いや、私、食べない!それ、嫌い!」


 かつて快活で面倒見の良かったアズサさんは、あの惨劇の記憶から逃避するかのように、完全に幼児退行してしまっていた。


 鼓膜を劈くような金切り声が、薄汚れた壁に反響する。


「姉ちゃん、頼むわ、これしかないねん」


 シオンの掠れた声には、深い疲労と絶望が滲んでいた。あんな事件を起こして逃げてきた後だ。身分を明かせない俺たちにまともな職などあるはずもなく、苦しい生活が続いていた。


「いや!」


 パァン、と乾いた音が響く。

 シオンが縋るように差し出した安物のコッペパンを、アズサさんがバチンと力任せに弾き飛ばしたのだ。床に転がったパンを見つめるシオンの目は、暗い虚無に呑み込まれ、完全に疲れ切っていた。


 「甘いのがいい!甘いのがいい!」


 手足をバタバタとさせて無邪気に喚き散らすアズサさん。その姿を見るたびに、俺の内蔵が裏返るような、嫌悪感がせり上がってくる。


 ガンガンガンッ!!


 唐突に、薄い玄関ドアが外から乱暴に叩きつけられた。

 ビクンと心臓が跳ね上がり、嫌な冷や汗がどっと背中を伝う。


『毎日毎日うっさいぞダボォ!んな出来損ない、ほかしてこいや!』


 ドアの向こうから、ドスの効いた男の怒声が響く。アルコールとヤニの臭いが扉越しにも漂ってきそうな、暴力的な気配。


「す、すんません…」


 シオンが床に這いつくばるようにして、ドアに向かって声を絞り出す。その慘めな背中を見つめながら、俺は呼吸の仕方を忘れ、ただ硬直して立ち尽くすことしかできなかった。


 これが、俺たちの日常だった。

 あの村を壊してもなお、悪夢は形を変えて、じわじわと俺たちの精神を侵食し続けている。

 もう、限界だった。


「シオン、俺、バイト行ってくるわ」


 重苦しい沈黙が降り積もる中、俺は耐えきれずにそう告げた。


「…」


 返事はない。これも、いつものことだ。

 俺は逃げるように、その薄暗い部屋を後にした。



 深夜、肉体労働のバイトの帰り。

 凍りつくような冬の風に吹かれながら、ボロアパートの前にたどり着く。


(電気が、点いとらん)


 見上げると、俺たちの部屋の窓だけが、ぽっかりと黒い穴のように闇と同化していた。


 嫌な予感がした。

 錆びついた鉄の外階段を、一段、また一段と登る。

 カン、カンという靴音がひどく不吉に耳の奥で響く。


 部屋の前。手を伸ばしたドアノブ。

 鍵も掛かっていない。


 カチャリ、と。

 何の抵抗もなく。

 ゆっくりと、開く。


 中は真っ暗だ。

 だが、室内の空気が重い。

 全身の毛穴が粟立つ。


「シオン…アズサさん…?」


 掠れた声で呼びかける。

 返答はない。


 圧倒的な静寂。


 震える指先を壁に這わせる。

 なんとかスイッチを探り当て、電気を点けると――。



【END③ 狂気の終着】


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