第50話 E
兵庫県、某所。
海からの潮風と排気ガスが混じった澱んだ空気が、どんよりとした思考をさらに曇らせる。
俺と、シオンと、アズサさんは、街の片隅にあるこじんまりとしたボロアパートに引きこもるように、ひっそりと暮らしていた。
「いや、私、食べない!それ、嫌い!」
かつて快活で面倒見の良かったアズサさんは、あの惨劇の記憶から逃避するかのように、完全に幼児退行してしまっていた。
鼓膜を劈くような金切り声が、薄汚れた壁に反響する。
「姉ちゃん、頼むわ、これしかないねん」
シオンの掠れた声には、深い疲労と絶望が滲んでいた。あんな事件を起こして逃げてきた後だ。身分を明かせない俺たちにまともな職などあるはずもなく、苦しい生活が続いていた。
「いや!」
パァン、と乾いた音が響く。
シオンが縋るように差し出した安物のコッペパンを、アズサさんがバチンと力任せに弾き飛ばしたのだ。床に転がったパンを見つめるシオンの目は、暗い虚無に呑み込まれ、完全に疲れ切っていた。
「甘いのがいい!甘いのがいい!」
手足をバタバタとさせて無邪気に喚き散らすアズサさん。その姿を見るたびに、俺の内蔵が裏返るような、嫌悪感がせり上がってくる。
ガンガンガンッ!!
唐突に、薄い玄関ドアが外から乱暴に叩きつけられた。
ビクンと心臓が跳ね上がり、嫌な冷や汗がどっと背中を伝う。
『毎日毎日うっさいぞダボォ!んな出来損ない、ほかしてこいや!』
ドアの向こうから、ドスの効いた男の怒声が響く。アルコールとヤニの臭いが扉越しにも漂ってきそうな、暴力的な気配。
「す、すんません…」
シオンが床に這いつくばるようにして、ドアに向かって声を絞り出す。その慘めな背中を見つめながら、俺は呼吸の仕方を忘れ、ただ硬直して立ち尽くすことしかできなかった。
これが、俺たちの日常だった。
あの村を壊してもなお、悪夢は形を変えて、じわじわと俺たちの精神を侵食し続けている。
もう、限界だった。
「シオン、俺、バイト行ってくるわ」
重苦しい沈黙が降り積もる中、俺は耐えきれずにそう告げた。
「…」
返事はない。これも、いつものことだ。
俺は逃げるように、その薄暗い部屋を後にした。
◇
深夜、肉体労働のバイトの帰り。
凍りつくような冬の風に吹かれながら、ボロアパートの前にたどり着く。
(電気が、点いとらん)
見上げると、俺たちの部屋の窓だけが、ぽっかりと黒い穴のように闇と同化していた。
嫌な予感がした。
錆びついた鉄の外階段を、一段、また一段と登る。
カン、カンという靴音がひどく不吉に耳の奥で響く。
部屋の前。手を伸ばしたドアノブ。
鍵も掛かっていない。
カチャリ、と。
何の抵抗もなく。
ゆっくりと、開く。
中は真っ暗だ。
だが、室内の空気が重い。
全身の毛穴が粟立つ。
「シオン…アズサさん…?」
掠れた声で呼びかける。
返答はない。
圧倒的な静寂。
震える指先を壁に這わせる。
なんとかスイッチを探り当て、電気を点けると――。
【END③ 狂気の終着】
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