第49話 E
空木神社。
この村の信仰の中心であり、狂気が発信される忌まわしき場所。
本殿まで続く長い石段は、厚い雪で白く覆い隠されていた。それはまるで、これ以上の干渉を拒むような、冷徹な神聖さを放っている。
「ほんまに、ええんか」
背後から、押し殺したような声が鼓膜を打った。シオンだ。
「決めたことや」
自分の口から出たはずのその声は、ひどく平坦で、まるで他人の声帯を借りて発したかのように温度がなかった。
「せやったら、ええねんけど」
「…アズサさんは?」
わずかな沈黙の後、俺が尋ねると、シオンは雪を踏む足を一瞬だけ止め、吐き捨てるように言った。
「家から、絶対に出るなて、言うとる」
「そうか」
言葉少なに頷き、俺たちは再び石段を登り始める。
ザク、ザクと、厚い雪を踏みしめる鈍い音だけが、不気味なほど静まり返った空間に吸い込まれていく。鳥のさえずりも、風の音さえも聞こえない。世界から切り離されたような絶対的な静寂の中で、己の荒い呼吸音だけがひどく生々しく響いていた。
シオンの手には、アズサさんの持ち物であるはずの、猟銃。
そして俺の右手には、ずっしりと重い一振りの鉈が握られている。手のひらにはじっとりと冷や汗が滲み、柄を握る指先が白く変色するほど力が入っていた。
(これで、断ち切るんや。この村の、狂った悪しき因習を)
石段を登りきった先。
白く染まった境内では、イツキさんがいつもと変わらぬ真っ白な白衣と緋袴姿で、竹箒を手に雪掻きをしていた。澄んだ冬の空気に、彼の凜とした佇まいが溶け込んでいる。
「…ケイさんと…シオンさん、でしょうか」
こちらに気づいたイツキさんが、手を止めて振り返る。
「…なにか、雰囲気が、違いますが…」
見えていなくとも、やはり、彼は鋭い。
張り詰めた沈黙が、ふわりと舞う雪とともに二人の間に落ちる。
「イツキさんは、言うてくれましたよね。『無理に語らなくていい』『自分を責めるな』って」
「…」
「俺、ほんまに、救われました」
心からの本音だった。彼のその言葉が、優しさが、どれほど俺の凍えきった心を温めてくれたか。
「ケイさん…?何を…」
「だから、俺も、イツキさんを救ってあげたくて」
イツキさんが戸惑いに眉をひそめたその瞬間。
俺は、全身のバネを弾かせて距離を詰め、右手に握った重い鉄の塊を、頭上高く振り上げた。
空気を裂く鈍い風切り音。
次の瞬間、己の意思とは無関係に、両手がそれをごきりと振り下ろしていた。
「がぁっ…ケ、ケイさ…」
刃が肉を断ち、骨を砕く、醜悪で生々しい感触が両腕を伝う。
真っ白な雪の上に、どす黒い赤が放射状に散った。じっとりと生温かい液体が俺の顔と手に飛沫を上げ、鉄と泥の混じったような強烈な血の匂いが鼻腔を殴りつける。
苦しまないように。できるだけ、一息に。
痙攣する彼の身体に、俺はもう一度、鉈を振り下ろした。
「ごめん」
絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。
その足で、俺たちは狂ったように境内へと走る。シオンが震える手でポリタンクの蓋を開け、ガソリンを撒き散らした。ツンとした揮発性の匂いが、むせ返るような血の匂いを上書きしていく。
「引くで」
「ああ」
シオンがシュ、と擦ったマッチの小さな炎が、ボウ、と音を立てて燃え広がった。そのまま境内へと投げ込まれた炎は、瞬く間に古い木造の社殿に引火し、冷たい雪景色を地獄のような赤に照らし出す。
熱風が顔を撫でた。
「このまま、行くで」
シオンが血走った目で俺を促し、石段を駆け降りていく。
◇
石段を降りきると、そこには、立ち上る黒煙を見て急いで走ってきたのだろう。肩で激しく息をするトウジさんと、その後ろにすがるアヤメさんの姿があった。
「ケイさん…と、シオンさん…もしかして……」
いつもは冷静なトウジさんの顔に、初めて明確な動揺が走る。
「その通りです、叔父さん」
「何故…何故このようなことを…」
「皆を、救うためです」
俺の声は、もはや震えてはいなかった。
「この村は狂っとる。俺のような被害者を出さへんためには、皆を救うには、こうするしかないんや」
俺の手に握られた、赤黒く染まった鉈を見たアヤメさんが、「ひっ」と短い悲鳴を上げた。腰を抜かしたように雪の上にへたり込み、ガタガタと歯の根を鳴らして震え始める。恐怖で瞳孔が開いている。
「シオン、怖がらせたない。頼むわ」
「ああ…」
俺の静かな言葉に、シオンがカチャリと冷たい音を立てて猟銃を構えた。
黒い銃口が、アヤメさんの眉間にピタリと向けられる。
「ごめんな、叔父さん」
俺がトウジさんの首元へ向けて鉈を振り下ろすのと同時に、パァン!と鼓膜を劈く乾いた破裂音が、静寂の雪山に木霊した。
火薬の匂いと、鉄の匂いが混ざり合う。足元に転がった二つの肉塊から目を逸らし、俺は吐き捨てた。
「小島商店に、向かう」
◇
商店へ向かう道すがら、俺たちは家という家に火を放って回った。
空を焦がす炎の熱気と、雪の冷たさが混ざり合い、肌を異常な感覚で刺激する。
逃げ惑い、阿鼻叫喚の声を上げる人々。俺たちはその村人たちを、後ろから、横から、正面から、叩き割っていった。
返り血で衣服はどす黒く染まり、歩くたびにべちゃり、べちゃりと不快な音を立てる。
(これでいい。これが救いなんや)
俺はただその信念だけを盲信し、腕を振るい続けた。
「姉ちゃん!姉ちゃん!」
小島商店に辿り着いたシオンが、血塗れのその手で乱暴に引き戸を開け放つ。
薄暗い店内には、頭を抱えて震えるアズサさんの姿があった。
「ひぃ…シオン…なぜ…なぜ……」
血まみれの俺たちを見て、アズサさんは恐怖に顔を歪め、後ずさる。
「しゃあないねん…姉ちゃん、行こ」
「嫌、私は、この村に居る、この村に居たい…ッ!」
彼女の瞳には、まだあの理不尽な因習の呪縛がべっとりと張り付いていた。炎に包まれ滅びゆくこの村に、それでもなお縋ろうとする狂気。
埒のあかない問答に、シオンの堪忍袋の緒が切れた。
「アズサ!立てぇ!!」
血を吐くようなシオンの怒号が、狭い店内に響き渡る。
ビクンと肩を震わせたアズサさんは、ふらふらと、まるでおぼつかない操り人形のような足取りで立ち上がった。
俺たちは彼女を半ば引きずりながら、店の裏に停められていた小島商店の軽トラックに乗り込む。
助手席に彼女を押し込み、俺は運転席に乗り込む。
シオンは荷台で猟銃を構え、掃討する手筈だ。
キーを回し、エンジンが唸りを上げる。
バックミラーに映る、業火に包まれ赤く燃え上がる村を背に、俺たちは梔子トンネルの暗闇を抜け、二度と戻ることのない外の世界へと走り出した。




