第47話
俺はふらふらと、重い足を引きずるようにして村役場のカウンターへたどり着いた。
足の裏が地面から遊離しているような、奇妙な浮遊感に苛まれていた。背中にはじっとりと冷たい汗が張り付き、衣服の隙間から這い上がるひんやりとした空気が、酷く不快だった。
「ちゃうねん、この帳簿が合わへんから…え、おい、ケイ、なんでお前こっちから…おい、どないしたんや」
受付カウンターの職員に身を乗り出し、大げさな身振りで時間稼ぎをしてくれていたシオンが、顔面を蒼白にして現れた俺の姿に気づき、慌てて駆け寄ってくる。
俺は口を開こうとしたが、すぐには言葉にならなかった。
「トウジさんが、おった…」
なんとか絞り出したその声は、自分でも驚くほどひどく掠れていた。
シオンの目が、極限まで見開かれる。
「おっさんが…!なんで…」
絶句したシオンの表情に、張り詰めた戸惑いが浮かんだ。だが、すぐに俺の異常な様子から事態の深刻さを察したのだろう。彼は忌々しげに舌打ちをすると、受付の奥に座る職員へと声を張り上げた。
「ごめん、やっぱ帳簿ええわ、僕の勘違いや!」
職員の不思議そうな視線を背中に浴びながら、シオンは俺の腕を強く掴み、一目散に長屋へと逃げ帰った。彼の手から伝わる微かな震えが、今の俺たちが置かれた状況の異常さを何よりも雄弁に物語っていた。
◇
「…お前が選ばれた理由は、わかった。それにしても《《たぬき》》やな、あのおっさん。全部漏れとったんかい。ほれ」
長屋のキッチンに、コーヒーの苦い匂いが満ちていた。
シオンが、マグカップをテーブルへと滑らせる。陶器の表面から伝わる温もりに触れて、ようやく自分の指先が氷のように冷え切っていたことに気がついた。
「生まれながらにして、こうなる運命やった、と」
舌打ちと共に、苦々しい表情でシオンが吐き捨てるように言った。
マグカップの縁をなぞる俺の指先は、まだ微かに震えている。
「んで、どないすんねん」
「どない、とは」
俺の力ない反問に、シオンは深く息を吐き出した。
「わかっとるやろ。言う通り、継ぐんか。逃げるんか」
突きつけられた二択。俺でなければならない理由は、痛いほどにわかった。
血の呪縛。
この狂った村を延命させるための、都合の良い「種」。
最善の未来とは、一体どれなのだろうか。
どれを選んでも、確実にどれかを失うことになる。
(俺は、何も、失いたくない)
胸の奥底から込み上げるのは、圧倒的な虚無感だった。
この村の、あの穏やかな静寂を、人々が向けてくれた優しさを守りたい。だが、それを守るということは、俺が村長となり、この血塗られた因習と狂気をこれからも続けていくということと同義だ。
少なくとも、目の前にいるシオンはそんな未来を望んでいない。そして何より、それはトウジさんの…いや、この村を縛る理不尽な因習の思う壺でしかない。
では、逃げればどうなるのか。
俺という「種」を失えば、この村は血の濁りとともに自然に消滅していくだろう。
それは、この村を心から愛するイツキさん、アヤメさん、そしてスミレさんの意志に反する。短い間だったが、彼らと交流して気づいたことがある。彼らは、都会で薄汚れた人間たちがとうに忘れ去ってしまった、人としての純粋な矜持と優しさを持っていた。真に美しい心の持ち主であることは、明白だった。
胸ポケットを探り、煙草の箱へ手を伸ばす。だが、指先にうまく力が入らず、箱を引き出すことすらできない。もどかしさと無力感に苛まれていると、不意に、鼻先をくゆる煙が掠めた。
「…」
見かねたシオンが、自分が吸っていた煙草を無言で差し出してくれていた。
俺はそれを無造作に受け取り、深く吸い込んだ。肺の奥まで入り込むニコチンの刺激が、少しだけ俺を現実へと引き戻してくれた。
「僕は、姉ちゃんを守りたい。クソみたいな因習を踏み潰したい」
シオンの瞳の奥で、暗い炎が揺れていた。
「でも、お前も、救われてほしい。勝手かもしれんけど、友達や思てんねん。クソ、どないしたらええねん」
やり場のない怒りをあらわにし、シオンは自分の髪を乱暴に掻き毟った。
その不器用で、ひどく人間らしい言葉が、凍りついていた胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
関わってしまった以上、もう知らぬふりはできない。
逃げることも、目を背けることも許されない。眼の前に並べられた残酷な選択肢から、己の意志で選び取るしかない。
重苦しい沈黙が、俺達の間に落ちる。
煙草の灰が、音もなく灰皿へと崩れ落ちた。
俺は残った煙をゆっくりと肺から押し出し、顔を上げた。
「シオン、俺は明日…」
もう、声は震えていなかった。
静寂に包まれた長屋の中で、俺の決意だけが、確かな重さを持って響いていた。




