第5話
寒さで目が覚めた。
掛け布団から出ている鼻の頭が、氷を押し付けられているように冷たい。ゆっくりと目を開けると、視界に入る木造の天井は、昨日眠りについた時と変わらない見事な梁を晒していた。
(YohTubeで見たわ、天井表し言うんやっけな)
そんなどうでもいいことを考えながら、起き上がって息を吐き出すと、吐き出した息は部屋の中で真っ白な塊となって漂い、ゆっくりと消えていった。室温は間違いなく氷点下に達している。
枕元に置いてあったスマートフォンを手に取り、画面を点灯させる。
『11月29日 07:14 圏外』
奇跡は起きていなかった。アンテナの棒は一本も立っておらず、ただ虚しく日付と時間だけを表示している。
一階に降り、洗面台の蛇口をひねる。凍りつくように冷たい水が、手のひらを突き刺すような痛みと共に流れ出た。その水で無理やり顔を洗うと、強烈な冷たさに頭の芯がシャキッと引き締まった。
昨日のコンビニの残りのサンドイッチはもう無い。残っているのは、昨日買ったペットボトルの緑茶が半分ほど。
(腹減ったな…。村の中に個人商店くらいはあるやろか。まあ、無かったら車でトンネル戻って買いに行けばええ話やし、まずは散歩がてらネタ探しや)
ダウンジャケットのファスナーを顎の下までしっかりと上げ、愛車の鍵と財布、あとはスマホをポケットにねじ込んで、俺は重い木製の引き戸を開けて外へと踏み出した。
一歩外へ出た瞬間、目の前に広がる光景に、俺は思わず足を止めた。
「うわ……なんやこれ」
一面の、圧倒的な『白』。
聞いたことがある このあたりの山間部では霧が発生するのだったか。
濃密で冷たい白の帳が、村のすべてを容赦なく飲み込んでいた。視界はせいぜい五メートル先が見えるかどうかだ。美しく整備されたはずの長屋も、道路も、畑も、すべてが牛乳の中に沈められたようにぼんやりと霞んでいる。
静かだった。静かすぎて、自分のスニーカーが濡れたアスファルトを踏みしめる「シャッ、シャッ」という足音だけが、霧の中に吸い込まれるように響く。
道路脇の畑の隅に目をやると、霧の中からぬっと現れたあの『真っ黒な枯れ枝』。しかし、よくよく見てみると、つる植物…枝豆、だろうか。少し気味が悪いがネタが分かれば、恐れるものではない。
霧の中を、あてもなくゆっくりと歩く。
昨日歩いた村役場とは反対側、村の中心部へ向かう坂道を上っていくと、やがて道路の脇に、苔むした古い石造りの階段が現れた。階段の入り口には、年季の入った木の鳥居が立っている。
「神社、か」
限界集落のルポとしては、地元の神社は格好の取材対象だ。村の歴史や信仰が色濃く残っているはずだし、何より写真映えもする。
俺は鳥居をくぐり、湿って滑りやすくなっている石段を、一歩ずつ慎重に踏みしめて上っていった。上るにつれて、周囲を囲む杉の巨木が霧の中から黒い巨人のように次々と現れ、威圧感が増していく。
階段を上りきると、そこには狭い境内が広がっていた。
正面に佇む本殿は、本瓦葺きの立派な造りだが、やはり村の他の建物と同様に、不気味なほどきれいに掃除されており、落ち葉一つ落ちていない。
拝殿の近くまで寄った時、俺の目は本殿の梁の装飾に引き寄せられた。 古い木彫りのレリーフが施されている。よく見ると、それは日本人なら誰でも知っている『三猿』の彫刻だった。
「見ざる、聞かざる、言わざる、やっけ」
だが、その彫刻を目にした瞬間、俺の足がピタリと止まった。
「…あれ?」
何かがおかしい。
三匹の猿が並んでいる横に、謎の削り取られたような跡。
(なんやこれ…)
歴史のありそうな古い神社だ。何かの彫刻が風雨に晒され、長い年月の間に風化して削れてしまったのだろうか。
ジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、カメラを起動する。液晶越しに見るその歪な三猿、そして謎の空白は、さらに不気味さを増していた。
ピントを合わせ、その異様な彫刻にレンズを向ける。
カシャリ、と冷たい電子音が静寂を切り裂いた――
その瞬間だった。
カサリ、と、すぐ近くで微かに濡れた葉が擦れる音がした。
俺は慌ててスマートフォンを下へ向け、音のした方――拝殿のすぐ脇へと視線を走らせた。
白く立ち込める濃い霧の向こうに、すっと一人の男性が立っていた。
真っ白な白衣に、薄い青緑色の袴。…浅葱色というのだったか。この神社の関係者だろう。顔は濃い霧のせいでよく見えない。
「どちらさまかは存じませんが、参道の正中は歩かれるものではありません」
静かだが、よく通る涼やかな声だった。




