第4話
「では、早速向かいましょうか」
トウジさんに促されて村役場から外へ出ると、山端に引っかかっていた朱色の太陽はすでに沈みかけ、急速にあたりを濃い闇へと染め上げていた。秋の日は釣瓶落としと言うが、山間部の夜の訪れは都会の比ではない。よそ者の俺が、ヘッドライトの心もとない光だけを頼りに夕暮れの険しい山道を車で戻るなど、自殺行為に近いだろう。
トウジさんの寛大な計らいにより、手続きを終えた今日からもう住んでいいとのことになり、彼が直接案内してくれることになった。正直、この極寒の闇夜に放り出されずに済んだのは、涙が出るほどありがたかった。
それにしても、とんでもなく寒い。車外に出た瞬間、山間部特有の、刃物のように身を切る冷気が容赦なく俺を襲う。
とりあえず自分の愛車へ戻ると、助手席に置いてあったコンビニの袋――冷めきったサンドイッチと緑茶、そしてタバコが入ったそれ――を掴み、吐く息を白く凍らせながら、小走りでトウジさんの背中を追った。
◇
「こちらになります」
トウジさんが細い指先で指し示した方向には、闇の中に沈む長屋風の古い木造民家が佇んでいた。
街灯もまばらな村の夜道だ。月明かりに照らされたその影を見て、俺は本当にここが住まいなのかと半信半疑だった。だが近づいてみると、周囲の他の住居と同様、確かに建物自体は古いものの、外壁の白漆喰はまるで新築のようにきれいに塗り替えられ、太い大黒柱も黒光りするほど入念に磨き上げられているのが見て取れた。
四棟ほど連なる長屋のうち、トウジさんは右から二番目の引き戸の前に立ち、鍵穴に鍵を差し入れた。
ガラガラガラ…と、乾いた音を立てて引き戸が開かれる。
「どうぞ、お入りください」
「お邪魔します…」
一歩踏み込むと、室内は文字通り一寸先も見えない闇に包まれていた。
「電気は…ここでしたかね」
トウジさんが壁を手探りし、ぱちん、と小気味よい音を立ててスイッチを入れた。
瞬間、場違いなシーリングライトの白い光が室内を満たし、俺の目の前には外観の古めかしさからは到底想像もつかない、驚くほど洗練された空間が広がっていた。
美しく滑らかに設えられたコンクリートの玄関土間。その先に広がる室内は、今風の「和モダン」とでも呼ぶべきお洒落なレイアウトだった。センスの良いフローリング。和室の畳は間違いなく新品で、青畳特有の、清々しくもどこか甘いイグサの匂いが、鼻腔を心地よくくすぐった。
(嘘やろ…俺の神戸の、あのジメジメした安アパートの何倍もええとこやん…)
「ほんまに、これ、タダでええんですか」
胸を突く驚きのあまり、まともな声が出なかった。正直、何かの見間違いではないかと疑うレベルだ。
「ええ。この村にわざわざ移住してくださる若い方は極めて少ないですから。まあ、このリフォーム費用も、ほとんどが国の特別な地域創生助成金で賄われているのですが」
トウジさんは、ははと柔らかく笑った。
「布団などの備品も押し入れに入っておりますので、ご自由に使っていただいて構いません」
「はぁ…ありがとうございます。助かります」
「では、鍵はお渡ししておきますね。夜も遅いですし、私はこれにて失礼いたします。これからのことは、また後日、村役場で」
「何から何まで、ほんますんません。ありがとうございました」
「いえ、これも私の仕事ですので。それでは」
トウジさんは丁寧に頭を下げて、引き戸を閉めた。去り際、暗い夜の闇に消えていく彼の表情が、どこか深い影を帯びたもののように見えた。だが、それは外が暗いせいだろう。慣れない長距離ドライブで疲れているのだと、俺は自分を納得させた。
「それにしても、めちゃくちゃ綺麗な部屋やな…」
静まり返った室内に一人残された俺は、子供のように胸を躍らせながら、この新築のような古民家の探索を開始した。
一階は広々としたLDKと、洗面所、そして風呂場。風呂はピカピカの最新式のユニットバスで、これなら足を伸ばしてゆっくり湯に浸かることができそうだった。
急で狭い木製の階段をトントンと上がって二階へと進むと、そこは天井の梁がむき出しになった、風情のある八畳ほどの和室の寝室だった。
部屋の隅にある床の間には、シンプルな黒い花瓶に一輪挿しが飾られていた。何かの植物の実だろうか。黄色から薄茶色に変色した、まるで固く閉じた唇のような、奇妙な形をした乾いた実がいくつか、細い枝にぶら下がっていた。
押し入れをガラリと開けると、真新しいシーツに包まれた布団がいくつか綺麗に仕舞ってあった。
探索を終えた俺は、一階に降りて引き戸を開け、外に出てタバコに火を付けた。
住まいのクオリティとしては想像を遥かに超えていた。ここでの暮らしは、あの都会の湿気たアパートに比べれば、生活水準が何倍も跳ね上がることは確実だ。
だが、安堵のため息を吐く俺の胸に、現代人にとって決して無視できない『重大な事実』が重くのしかかっていた。
「Wi-Fiも、LANの差し込み口もあらへん…。スマホも…当然、圏外のままや」
唯一にして、今の俺には最も致命的な欠点だった。
冷たい夜風が吹き抜け、赤く燃えるタバコの先端から伸びる紫煙を、あっさりと闇の奥へと拐っていく。
周囲を見渡しても、静まり返った村には人影一つなく、ただ真っ黒な山々のシルエットが夜空に浮かんでいるだけだった。
「…まあ、とりあえずPCは持ってきとるしな」
ルポの原稿はローカルで書いて溜めておけばいい。どちらにしろ、『地域定住支援プログラム』で14日間はここを拠点に動かねばならない。その後に神戸に戻ってもいいだろう。
「明日はネタ探しがてら、明るくなったら村の中を散歩でもしてみるか」
自分自身を納得させるように独り言を呟き、吸い殻を携帯灰皿にねじ込んだ。
部屋に戻った俺は、冷めきったコンビニのサンドイッチを緑茶で一気に胃袋へ流し込み、熱い風呂に浸かって長距離運転の疲れを癒やした。
布団に入り、パチリと電気を消す。
二重サッシの窓に切り取られた室内は、完全な暗闇と、そして耳が痛くなるほどの完璧な静寂に満たされていた。自分の呼吸の音だけが、まるで他人事のように暗闇の中に吸い込まれていくのを感じながら、俺は深い眠りへと落ちていった。




