第3話
トウジさんはお茶と共にアヤメさんに手渡された茶封筒から、数枚の厚手の書類を取り出した。法務局の重々しい印章や、公的な書類独特の、細かく詰まった明朝体が目に入る。
『登記事項証明書』、それに『固定資産税評価証明書』。
不動産など一度も持ったことのない俺でも、それが本物の『土地の権利』に関する書類だということは直感的に分かった。
「ケイさんの曾祖父にあたる、浦部シバさんの名義になっている土地と建物です。こちらがその大まかな図面と、現在の写真になります」
差し出された古い資料を覗き込む。白黒の粗いコピー用紙には、鬱蒼とした山林に四方を囲まれた、驚くほど広大で頑丈そうな古民家の写真が写し出されていた。茅葺き屋根の上にトタンを被せた、豪農の屋敷のような圧倒的な存在感だ。
「…でかいすね。これ、本当に俺が貰てもええんですか」
「はい。シバさんが亡くなられてから三十年近く放置されていたのですが、法律事務所の綿密な調査により、法定相続人の皆様全員から『相続放棄』、または『遺産分割協議』による権利放棄の合意が得られました。現在、戸籍上の正当な後継者は浦部ケイさん、あなたお一人だけです」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
毎月カツカツのライター生活で、来月の家賃をバイトでなんとか工面しているような俺に、こんな莫大な資産が転がり込んでくるなんて。
(売却すればそれなりのまとまった金になるはずや。…いや、待てよ。そもそもこんな山奥の土地、ほんまに売れるんか? 下手に引き継いで税金だけ取られるくらいやったら、相続放棄したほうが賢いんちゃうか…)
そんな考えが頭をよぎり、俺が黙って逡巡していたその時だった。
「ですが」
トウジさんの静かな声が、俺の思考の巡りをピシャリと遮った。
「少々、行政上の手続きで問題がございましてね。今すぐにこの土地と建物を、ケイさんの名義に変更し、引き渡すことはできないのです」
「えっ。…それって、どういうことです? 相続人は俺だけなんですよね?」
「ええ。問題は、この家が三十年近く『未登記のまま放置されていた』という点にあります」
トウジさんは細長い人差し指で、もう一枚の別の書類をテーブルに滑らせてきた。タイトルには『特定空家等に対する措置および管理費用の請求について』と記載されている。
「近年、国の方でも法改正が行われ、空き家対策が非常に厳しくなっておりましてね。この屋敷も、長年の放置によって屋根の一部が崩落し、周辺の道路に土砂が崩れるなど、防災・保安上の重大な危険が生じておりました。そこで当役場が、村の条例に基づき『代行』として数回にわたり、建物の応急補修や周囲の草刈り、土砂の流出防止措置を行ってきたのです」
「はあ…」
「これが、その際にかかった管理費用の内訳です」
トウジさんが示した見積書の、赤い下線が引かれた数字を視線で追い――俺は喉の奥がカラカラに乾くのを感じた。
『¥3,850,000ー』
(いちじゅうひゃくせん…さ、…さんびゃくはちじゅうごまん…?)
一瞬、自分の見間違いかと思って、桁のコンマの位置を何度も数え直したが、間違いなかった。
「この管理代行費用は、民法上の『事務管理』に基づいて、新たな所有者となる相続人に請求されることになります。つまり、浦部さんがこの土地を正式に相続される場合、まずこの金額を村に精算していただかなければならないのです」
「いや…そんなん、払えるわけないですよ。俺、しがないフリーランスですよ? 貯金なんか十万も無いです」
一瞬にして、天国から冷たい地獄の底へと叩き落とされた気分だった。せっかくの遺産も、これではただの借金を背負わされるのと同じだ。いずれにせよ、これはやっぱり相続放棄するしかないのか――。
ガックリと肩を落とした俺の様子を見て、トウジさんは「まあ、そうですよね」と、まるで全てを織り込み済みだったかのように深く頷いた。
「ですから、当村としてもそのようなご無理は申し上げません。実は、これを合法的に免除する『救済措置』がございます」
「免除…? そんな都合のええ話があるんですか」
「ええ。当村には『地域定住支援プログラム』というものがございます。現在、国が進めている地方創生の一環ですね」
トウジさんはもう一枚、今度は明るいグリーンの表紙が刷られたパンフレットをテーブルに置いた。
『地域定住支援プログラムのご案内』
「この村の戸籍、あるいは血縁を持つ若い方が、村へ戻り、土地を管理する意思がある場合……。当村の『公営お試し住宅』に十四日間滞在していただき、その間に簡単な『適正管理計画書』を提出していただく。これによって、過去の管理費用はすべて『地域活性化補助金』として処理され、浦部さんの負担は【実質ゼロ】になります」
「十四日間、ここに住むだけで……?」
「はい。もちろん、その滞在期間中の家賃・光熱費はすべて村が負担します。さらに、ささやかではありますが、生活支援金として一日あたり五千円の日当も支給させていただきます。二週間で計七万円ですね」
頭の中で、猛烈なスピードでソロバンが弾かれ始めた。
タダで二週間泊まれて、光熱費もかからない。さらに七万円の小遣いが手に入り、最終的にはあの広大な土地と家が手に入る。
しかも、その二週間で『限界集落にお試し移住してみた』というリアルな体験ルポを書けば、ネットメディアから記事のギャラも入る。完璧すぎる。話がうまくいきすぎていて、逆に少し気持ち悪いほどだ。
(でも、これって役所の公式な地方創生キャンペーンやろ? 別におかしな話やない…よな?)
目の前に置かれたのは、極めて現実的な行政の申請書類。法務局や村の公印が押された、紛れもない『本物』だ。村役場の冷え切った空気が、少しだけ俺の思考を鈍らせているような気がした。
「いかがですか? ケイさん。急なお話ですので、一度持ち帰って検討されても結構ですが…」
「ちょっと、ちょっと待ってくださいね」
うまい話には、裏がある。一旦、冷静に考えるべきだろう。事前に法律事務所の住所も番号も…確認した。大阪市内に実在し、口コミも特に怪しい点はなかったはずだ。
それ以外もAIに聞いてみたりしたいが、あいにく電波が入っていない。
書類なども見返してみるが、公正なもので、恐らく詐欺の類では無いだろう。
「――」
俺は持参した安物の三文判とボールペンを握り直した。ここで迷って帰ったら、いつもの『二束三文の言葉の海』に逆戻りだ。チャンスは掴むためにある。俺の本能も、『迷わず行けよ、行けばわかるさ』と告げている。
「やります。その、お試し居住ってやつ、申請させてください」
「…承知しました」
トウジさんは、柔らかく、けれどどこか深すぎる笑みを浮かべた。
「では、こちらの『特別措置申請書』と『誓約書』に、ご署名とご捺印をお願いいたします」
俺は、指定された欄に署名し、朱肉をたっぷりつけて持ってきた安物のプラスチックの三文判をしっかりと押し付けた。書類に赤い血のような跡がくっきりと残る。
「――これで、いいすかね」
書類にじっくりと目を通すトウジさんは、ひとしきり俺が書いた文字を眺めた後、変わらぬ笑顔で答えた。
「はい、問題ございません。これで、ケイさんも村の一員ですね」




