第2話
村役場。
その内観も、外観からの清潔な印象と違わず、床は鏡のように磨き上げられ、隅々まで埃一つ落ちていない。整理整頓が行き届いた室内は、俺が暮らしていた都市部の喧騒極まる役所とは比べものにならないほどに静まり返っていた。
カタカタと乾いたキーボードを叩く音、紙が擦れるだけの書類をめくる音。時折聞こえる電話応対の低く抑えられた声。それらの無機質な音だけが、広い空間の隅々にまで染み渡るように満たしていた。
「こちらへ、どうぞ、お掛けになってください」
「ああ、すんません」
受付フロアの一角に設けられた、最低限の応接スペース。ヴィンテージと言って差し支えないような、年代物の重厚な革張りのソファと、小さな木製のローテーブル。
自分がふぅと深く息を吐いた音さえ、この静謐な空間を汚す騒音になるのではないかと酷く気を使いながら、俺はゆっくりと腰を下ろした。
余りの静けさにカウンターの奥を覗いてみると、そこにはちゃんと数人の職員が、せわしなく、だが驚くほど無駄のない動きで働いていた。
「何か、気になることでもありましたか」
正面の対面に座る村長は、ずっしりと重い、時代遅れのカットガラスでできた灰皿を俺の前にゴトリと置いた。ぼうっとカウンターの職員たちの業務を眺めていた俺の視線に気づいたのだろう。穏やかな声音で問いかけてきた。
「ああ、いや、その…みんな真面目やなって、うん」
「そうですね。この役所で働いている皆は、すべてこの村の生まれなんです。仰る通り、とても真面目な人ばかりですよ」
「ほぉ、そうですか。全員、村の人…」
すべてこの村の生まれ。
こんな山奥の小さな集落だ。人の流入も流出も、極端に少ないのだろう。
だが、都会の役所のように機械的に仕事をこなすのではなく、誰もが一点を見つめて黙々と作業している。村の中でこうして雇用が創出できているのは良いことなのだろうが、どこか統制されすぎているような、妙な違和感が頭の隅に引っかかった。
ことり、と硬い音が鼓膜を叩いた。
音の方向へ視線をやると、ローテーブルの上に湯気の立つ湯呑みが置かれていた。それを持ってきてくれたらしい、役所の制服を着た女性が俺の視界に入る。
「――っ」
喉の奥で、小さく息が詰まった。
目の前に立つ女性の顔を凝視したまま、俺は全身を凍りつかせた。
村長――トウジさんと、全く同じ顔の女性がそこに立っていたのだ。…いや、流石に『全く同じ』と言うのは語弊がある。彼女は女性だし、年齢も違う。だが、目元や鼻の角度、薄い唇の並びといった顔のパーツの構成が、ぞっとするほど対称的で、まるで同じ鋳型から作られたかのように酷似していた。目の前に並ぶ二人の顔が、まるで鏡合わせのトリックアートのように見えてくる。
「ああ、娘のアヤメです。そっくりでしょう」
置かれたお茶を一口すすり、トウジさんは穏やかに、本当に嬉しそうに笑った。
正直、白昼堂々ドッペルゲンガーに遭遇したのかと心底驚いたが、血のつながった親子、しかも父親にそっくりな娘というのは、世間でも珍しくはない。田舎特有の血の濃さ、というやつだろうか。俺は自分を納得させるように、心の中で言い聞かせた。
「いや、ほんま、そっくりですわ。…どうも、浦部です。お茶、ありがとうございます」
慌てて立ち上がり、アヤメさんを視界の正面に据えて頭を下げる。役所のベージュの制服を乱れなく着用し、長くつややかな黒髪を後ろで緩く縛った、三十代後半くらいに見える整った容姿の女性だ。
だが、俺の挨拶に対して、彼女は声を発することはなかった。ただお盆を両手で抱えたまま、丁寧に、深々と一礼を返しただけだった。
「あれ…俺、なんか変なこと言いましたかね」
何か失礼な言い方をしてしまっただろうか。少し焦る俺に、トウジさんは相好を崩したまま答えた。
「ああ、いえ、お気になさらないでください。アヤメは生まれつき、耳が聞こえないのです」
そう言うトウジさんの口調は、事実を淡々と述べながらも、どこか慈しむような、あるいはそれ自体を誇らしげに思っているような響きを帯びていた。
「あ、そうでしたか…。なんか、返事を催促したみたいですんません」
俺が慌てて頭を下げると、アヤメさんは俺の言葉を雰囲気で理解したのか、首を優しく左右に振り、気にしていないという意思をジェスチャーで返してくれた。
アヤメさんの表情は先程の無機質なものから、少しだけ柔らかく和らいでいた。その瞳の奥には、卑屈さなど微塵もなく、むしろ揺るぎない自信というか、気高い自尊心のようなものが、静かに満ち満ちているのが見て取れた。
「アヤメ、ありがとう。仕事に戻りなさい」
父親であるトウジさんの静かな声とジェスチャーに促され、アヤメさんはもう一度一礼すると、足早にオフィスへと戻っていった。その歩行音すら、磨かれた床の上を滑るように静かだった。
「そうだ、浦部…ケイさんは、普段お仕事は何をされているのでしょう」
「ああ、ええと…リモートワークで、物書き、を。まあ、まだ駆け出しですけど」
しがない有象無象のWebライターを『物書き』などと大層に表現してしまった自分に、少しだけ自嘲気味な笑いが漏れる。
「言葉、文字でお仕事をされているのですね。お若いのに、素晴らしいことだ」
「いやいや、ほんまに駆け出しなんで、そんな大層なもんでも無いですよ」
不意に向けられた純粋な称賛に、なんだか気恥ずかしくなって、俺は人差し指で鼻の頭を軽く掻いた。
「では、そろそろ本題の方に入りましょうか」
トウジさんの言葉に、俺は背筋を伸ばした。
そうだ、俺はこんな田舎くんだりまで、世間話やお茶を飲みに足を運んだわけではなかった。




