第44話
長屋の居間。
ローテーブルを挟み、俺とシオンは今日の手順を最終確認していた。
「トウジのおっさんは、十一時過ぎに役場を出る。僕は役場で書類の手続きかなんかで、残っとる職員をできるだけオフィスに引き止める」
俺はテーブルに置いたスマートフォンの画面をタップする。
『12月8日 10:29 圏外』
「言うても小さい役場やし、そのタイミングで村長の執務室に行くやつもおらんやろけどな。…一応や、一応」
シオンの声色は、どこまでもいつも通りだった。その平然とした響きが、俺の胸の奥でどくどくと、うるさいほどに警鐘を鳴らし続ける心臓を、ほんの少しだけ落ち着かせてくれた。
だが、どれほど言葉で取り繕おうとも、これは明らかに不法侵入であり、れっきとした犯罪だ。じわりと手のひらに嫌な汗がにじみ出てくる。
「ほんまに、上手いこといくんやろか…」
「ケイ、心配しすぎやねん。見つかったところで、殺されるわけでもない。箱を開けて、中身をスマホでパシャっと撮って、逃げてくるだけや」
「あ、ああ…」
喉がカラカラに乾いてうまく声が出なかった。
「なんやねん、そのシケた面。ここまできたらやるしかないやろ。…行くで」
シオンの言葉を合図に、俺は手元にあったペットボトルのお茶をぐい、と強引に喉へと流し込んだ。ぬるい液体が、緊張で強張った食道を通り過ぎていく。
俺は小さく息を吐き、腰を上げた。
◇
村長であるトウジさんが古い軽自動車で出かけていくのを遠目に見送った後、俺はシオンの手引きによって、裏口からこっそりと村役場の内部へと侵入していた。
今頃、正面の受付カウンターでは、シオンが持ち前の世渡りの上手さで他の職員の気を引いてくれているはずだ。
ドッドッ、と、肋骨の裏側で心臓が早鐘を打つ音が、耳の奥にまで直接響いてくる。俺の破裂しそうな心情とは裏腹に、目の前の廊下は驚くほど綺麗に整備されていた。床の板張りは確実に年代を感じさせる古いものなのに、塵一つ落ちておらず、不気味なほど美しく保たれている。その完璧な清潔さが、かえってこの村の異様さを際立たせ、肌にピリピリとした触覚的な恐怖を刻みつけてくる。
(確か…二階の、奥…)
足音を消すように慎重に階段を上がり、ひっそりとした廊下を進む。各部屋の扉には、有難いことに古びた木製のネームプレートで名前が書かれていた。
会議室…応接室…更衣室…。
(村長執務室…ここや)
あっけなく、目的の部屋は見つかった。
俺は一度大きく息を潜め、手汗でじっとりと濡れて滑りそうになる手を、鈍く光る真鍮のドアノブへと掛けた。
ゆっくりと、慎重に力を込めて回す。
キィ…。
蝶番が静かな悲鳴を上げて、扉が開いた。
鍵などは掛かっていない。やはり、外の世界から隔絶されたこの平和な村では、住民同士の防犯意識など皆無に等しいのだろう。
室内は、しんと静まり返っていた。厚い雲に覆われた外からの、灰色に濁った光が、室内を薄暗く、陰鬱に照らし出している。
十畳ほどの、思いのほか狭い空間。
部屋に踏み込んだ瞬間、古い本のような、あるいは長い年月を経た木のような、どこか懐かしく、それでいて鼻の奥にべっとりとへばりつくような薄甘い香りが鼻腔をくすぐった。
室内は質素だが、堅牢な作りの事務デスクが中央に鎮座し、その背後の壁には、壁一面に頑丈な本棚が据え付けられている。棚には茶色く変色した古びた書物や、対照的に真新しいプラスチック製のバインダーなどが、狂執的なまでに美しく整理され、隙間なく並べられていた。
だが、一通り目を凝らしてみても、それらしき「箱」の姿は見当たらない。
(隠されとったら、面倒やけど…)
焦燥感が冷たい汗となって背中を伝い落ちる。
俺はデスクの側へと回り込み、施錠すらされていないサイドチェストの引き出しを、上から順に、音を立てないよう静かに開けていった。
他人の仕事場へ侵入し、あまつさえその私物を容赦なく物色している。自分が今、決定的な反社会的行為に手を染めているのだという生々しい事実が、脳を痺れさせ、脈拍をさらに狂ったように加速させる。
一番下、もっとも容量の大きな引き出しを、重みを感じながら引き出すと――。
(これや…)
思わず息を呑んだ。
三十センチ四方はあるだろうか。周囲の味気ない事務用品とは一線を画す、黒ずみ、明確に長い年代の経過を感じさせる木製の箱が姿を現した。それは、他人から見つからないように秘匿されているというよりは、まるで神聖な供物のように、その場所へ大事に安置され、保管されているといった厳かな様相を呈していた。
俺は震える手でそれをゆっくりと持ち上げた。ずっしりとした、木材以上の質量を感じさせるそれを、デスクの上へと移動させる。
きっちりと隙間なく嵌り合っている木の蓋に指をかけ、恐る恐る、上方へと引き上げた。
(なんや、これ…)
中には、いくつかの奇妙な物品が収められていた。俺はべっとりとまとわりつく気味の悪さを抑え込みながら、上から順に、それらをデスクの上へと慎重に並べていった。
まずは、幾重にも、几帳面なほど綺麗に折りたたまれた、分厚い和紙のような紙。
その下から姿を表したのは、表紙に『梔子沈黙律』と墨で書かれた、手擦れして角の丸くなった古びた手記だった。
(これは、原本か…?)
言葉にならない驚きで指先が震える。そして、箱のいちばん底に敷かれるようにして入っていたのは、古びた、奇妙な織物――タペストリーのようなものだった。小さく折りたたまれていて、この状態では全体の絵柄はよくわからない。
すべての内容物が、デスクの上に曝け出された。一つ一つが、丁寧に箱へと収められていた。
俺は、いちばん不気味な気配を放っていたその織物を、ゆっくりと、細心の注意を払いながら広げていった。
現れたのは、色褪せた糸で、静かに坐禅を組んだ人物の姿が織り込まれた図柄だった。
それだけであれば、単なる歴史的な骨董品の類か、と自分を納得させることもできたかもしれない。だが、その織り込まれた人物像には、見る者の理性をじわじわと侵食していくような、致命的な違和感、そして生理的な嫌悪感があった。
(顔が、ない…)
顔のパーツが、擦り切れて消えているわけではない。目も、鼻も、口も、最初からそこに刺繍されていないのだ。ただ、のっぺりとした空白が鎮座していた。
(おちょぼ様…これが、トウジさんやリンドウさんが言うとった、村の開祖なんか…?)
得体の知れない悍ましさに背筋が凍りつき、鳥肌が一気に腕へと広がっていく。気味が悪いものであることには変わりがなかった。
俺は強張る手でポケットからスマホを取り出し、その顔のない歪なタペストリーに向けてレンズを向けた。画面越しに見るその姿は、さらに不気味さを増している。
指先が画面に触れる。
――カシャ。
しんとした、静寂に満ちた空間に、およそ似つかわしくない電子のシャッター音が、鋭く響き渡った。
俺はすぐさまスマホをズボンのポケットへ押し込み、織物を元の形へと崩さないよう注意深く折りたたみ、デスクの隅に退けた。
次に手を伸ばしたのは、最初に置いた、幾重にも折りたたまれたあの大きな紙だ。
何が書かれているのか、未知の恐怖に喉を鳴らしながら、俺はゆっくりと、紙の端に指をかけて開いていった。
(なんやねん、これ…)
視界に飛び込んできたその光景に、俺の思考は完全に停止した。脳内が真っ白に染まり、語彙という語彙が、喉の奥から瞬時に掻き消えていった。




