第43話
スミレさんと別れた後、俺は村役場の駐車場へと足を向けていた。
明日の潜入に備えた下見――その建前を胸の中で繰り返すが、実際には、ただこの村の完璧すぎる静寂から一時でも逃れたかっただけなのかもしれない。
砂利が敷かれた駐車場は、すでに厚い雪の層に飲み込まれ、境界線を失っていた。
その隅で、俺の愛車である中古のコンパクトカーが、うず高く積もった白い冠を乗せて沈黙している。
初日から放置されたままのその姿は、都会から迷い込み、そのまま凍りついてしまった俺自身の境遇そのものに見えた。
(…次乗るとしたら、春かな)
なんとなくポケットに残っていた鍵を差し込み、ドアを開ける。
運転席に腰を下ろすと、使い古されたシートの匂いが鼻腔をくすぐった。タバコと生活臭の混じった、懐かしい都会の匂い。
セルを回すと、キキキッと凍てついた金属が悲鳴を上げ、やがて乗り慣れた振動がステアリングを通じて伝わってきた。サイドブレーキを下ろし、ギアを繋げば、今この瞬間にだってここから逃げ出せる。だが――
(あ、そういえばノーマルタイヤのままやったな…これで雪道を走るのは自殺行為や)
この相棒との逃避行は、どう足掻いても物理的に不可能だった。
エンジンを切り、タバコを抜き取って火をつけた。
ぼうっと、雪の向こうに佇む村役場の建物を見つめる。
コン、コン。
フロントガラスを叩く小さな音に、肩が跳ねた。
視線をやると、そこにはアヤメさんが立っていた。役場の制服の上に、温かそうなダウンジャケットを羽織っている。鼻先を赤くし、小首を傾げて助手席を指さす彼女。
恐らく、乗ってもよいか、ということだろう。
断る理由もなく頷くと、俺は慌ててタバコを灰皿に押し込んだ。
ガチャリとドアが開くと、冷気と共にアヤメさんが滑り込んできた。彼女は「お邪魔します」とでも言うように、小さく頭を下げる。
取り出されたメモ帳。さらさらとペンが走る音だけが、狭い車内に響く。
『おでかけですか?』
『いえ、なんとなく、です。アヤメさんはお仕事ですか?ご苦労さまです」
『はい ちょっとだけ お仕事です』
にこりと微笑む彼女のコートには、外回りでの苦労を物語るように少しだけ雪が積もっていた。彼女は、この過酷な雪国での生活を「当然の日常」として受け入れている。
そんな彼女が、ふと俺の顔を覗き込んだ。
『なにか あったんですか?』
「…」
問いかけに、言葉が詰まる。
さっき別れた、「村を救うために子供が欲しい」というスミレさん。
そして今、目の前で俺を案じてくれているアヤメさん。
『待っていてくれ』と啖呵を切ったはずの俺の決意が、この車内のぬるい沈黙の中で、みるみると脆くなっていくのを感じる。
だが、アヤメさんはそれ以上、なにも詮索しなかった。
彼女との沈黙には、「何かを話さなければならない」という応答義務感が一切ない。
俺たちはただ、動かない車の中から、世界を塗りつぶしていく雪を眺めていた。
紛れもなく、彼女もこの村で育った村民の一人だ。
正しいこと、良いこと。
間違っていること、良くないこと。
それを袈裟まで憎いとばかりに、一纏めにして「間違い」だと切り捨てることは、今の俺には出来なかった。
ふと、アヤメさんが新しいメモを差し出してきた。
『それ おいしいですか?』
視線の先。俺は無意識に、火のついていない次のタバコを指で弄んでいた。
『おいしい時もありますが、ちょっと、説明が難しいです』
『すってみたい です』
このご時世に女性にタバコなど…と、俺は一瞬躊躇したが、これもまた一つの「経験」かと苦笑した。
ライターで手早く火を点け、少しだけ燃焼させてから、彼女へと手渡す。
『ゆっくり、少しだけですよ』
彼女は興味深そうにフィルターを咥え、恐る恐る吸い込んだ。
「ケホッ、ケホケホッ!」
「ああ、大丈夫ですか…?」
予想通りの反応に、俺は慌ててタバコを受け取った。アヤメさんは涙目になりながら、唇を一文字に結んでメモを綴る。
『おいしくない にがい』
「ははっ」
子供のような感想に、俺は今日初めて、心の底から笑ってしまった。
極寒の、雪に閉じ込められた車内。
だが、どこか温かな安らぎに満ちていた。




