第42話
シオンと別れ、時間を持て余した俺は、村役場へと続く坂道を歩いていた。
明日の潜入に備えた下見だ。
(別に銀行強盗するわけやないねんけどな…)
自嘲気味な独り言を吐き出すが、胸の鼓動が少しだけ早まっているのを感じる。
キュッ、キュッ、と雪を踏む度に靴が鳴る。
道端に佇む「おちょぼ様」――あの顔のない奇妙な地蔵も見慣れたものだ。
(明日、俺は真相にたどり着ける…かもしれへん。…でも、その後どうする?)
答えのない問いが、堂々巡りを始める。
すべてを知って逃げるのか。
それとも、知った上で『種』としてこの地に骨を埋めるのか。
それとも…。
思考の深みにはまりかけたその時、診療所のベンチに腰掛ける見知った女性を見つけた。
スミレさんだ。彼女も俺に気づいたようで、小さく、手を振ってくれる。俺も思わず振り返し、彼女の隣へと歩み寄った。
「休憩、ですか?」
彼女はコクリと頷き、そっとペンを走らせる。
『お隣、どうぞ』
「じゃあ、失礼します」
隣に座ると、彼女のショートカットから覗く尖った耳が、寒さのせいか赤くなっていた。
「なんでまた、こんな外で休憩なんか…」
『雪が好きなんです』
「それはまあ…わかる、かな。俺の住んどった地域は、あんまり降らへんので」
『どんなところですか?』
「普通に住宅街…って言うても、この村から出たこと無かったっけ。ちょっと待ってくださいね」
ポケットからスマホを取り出し、数少ない家族の風景を探す。
「あった。これが、神戸の実家。それで、これが、クロ」
何の変哲もない、建売住宅の玄関で昼寝をする犬を撮った写真。
スミレさんは興味深そうに身を乗り出し、彼女との距離が詰まる。化粧品の匂いが一切ない、清潔なシャンプーのような香りが鼻腔をくすぐり、不意に動悸がした。
『かわいらしいワンちゃんですね』
「そう、可愛いんですよ。俺の大事な家族です。元気しとうかなぁ」
『他のご家族は?』
「おかん…母親だけですね。クロと、母親の二人暮らしでした」
俺の言葉に、スミレさんはペンを止めた。
『そうですか。淋しくないですか?この村では、みんなが家族です。みんなで一つの大きな木、みたいな』
メモを見せながら、柔らかく笑う彼女に、俺は何も言えなかった。
その「木」を、俺は根元からへし折ろうとしている。
シオンはそれを望んでいるし、それが「正しい道」の一つであるはずだ。だが、この穏やかな沈黙を「狂気」の一言で切り捨てていいのか。
沈黙に耐えかねたように、スミレさんが震える指で新しいページをめくった。
『前にもお伝えしましたが、この村には子供がいません。生まれても、すぐに死んでしまいます』
スミレさんは、そう書かれたメモだけを俺に見せ、目を伏せる。
診療所で助手として働く彼女にとって、それは日常の一部なのだ。
数分の沈黙の後、スミレさんは俺を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、涙が滲んでいる。
不意に彼女が俺の手を取り、そのままゆっくりと、彼女自身のお腹へと、押し当てた。
「なっ…」
唐突な行為に、反射的に声が出た。
分厚いコート越しではあっても、手のひらには彼女の微かな体温が伝わってくる。その行為が何を意味しているのか、この村の『種』として招かれた俺には痛いほど理解できた。だが、なぜ彼女がこれほどまでに切実な瞳で俺を見つめるのか、その真意が測りきれなかった。
手を離した彼女の表情は、どこか悲しげで、それでいて何かを憂いているような、複雑な色をしていた。
彼女は震える指でペンを走らせ、俺に一枚のメモを差し出す。
『私は、子供が欲しいです。他の誰でもない、ケイさんとの子供』
それを見た瞬間、俺の心拍数は跳ね上がった。
「スミレさん…」
その言葉は、純粋に村の存続を願う切実な祈りであると同時に、400年にわたる歪んだ因習によって植え付けられた、間違った常識の産物でもあった。
外の世界を知らない彼女は、絶滅の淵にある村を救うために、外からもたらされる『種』を待ち望んでいるのだ。
『私が、三戒の一人であることは、誇らしいことです。それ以上は過ぎた願いです。でも、できれば、私とあなたの子で、村を救いたい』
彼女は心からこの村を愛している。いや、そうなるように、仕向けられてきたのかもしれない。
(彼女を救うには、一体何を選ぶのが最適解なんや…)
都会での言葉の暴力から逃げ出してきた俺にとって、この村の沈黙は正しいようにも思える。だが、そんな歪んだこの村を続けるために、「家族が欲しい」と震える彼女に「子」を与えることが、果たして救いと言えるのか。
堂々巡りの思考が、再び俺の脳内を侵食していく。
だが、スミレさんの手は、確かに生きる『個』としての温もりを宿していた。
それは村の泥から湧き出した何かではなく、一人の血の通った人間の温度だったから。
「…俺に、少しだけ時間をくれませんか」
俺は彼女の目を見て、静かに告げると、スミレさんは不思議そうに首を傾げた。
真に彼女を救う方法は、子を産ませるという短絡的な手段ではないはずだ。
彼女は俺の意志を感じ取ったのか、小さく、祈るように頷いた。
雪が再び激しさを増し、俺たちの足跡を、音もなく消していく。
この村を縛り付ける『還る血』をどうするのか。
俺は明日、確かめるのだ。
最善の未来を選択するために。




