第40話 D
「こんにちはー」
小島商店の引き戸をガラリと開け、冷え切った空気と共に店内へと声をかける。
「あ、ケイさん、こんにちは!聞きましたよ、とても良いお籠りだったって」
カウンターの奥から返ってきたのは、予想していた声ではなかった。少しだけ驚いたが、その明るい声の主がシオンの姉のアズサさんであると、すぐに理解した。
「あ、ありがとうございます…」
「何かお探しですか?」
アズサさんはいつものように、人懐こい、屈託のない笑顔をこちらに向けてくる。
悪いことをしているわけでは決してないはずだった。だが、この村の隠された裏を、因習を暴くために動いているいまの俺には、彼女のその無垢な善意に対して、どうしても薄暗い後ろめたさが付きまとった。
「あ、あの、いや…ちょっと、シオンに用事があって」
「あの子なら『ちょっと出てくるわ』って、私に店番を押し付けてさっさと出ていっちゃいましたよ。ほんとにもう」
アズサさんは困ったように眉を下げて笑う。
「行き先は…どこか分かりますか?」
「変な子ですから、うーん…。多分、村外れの池のあたりかなぁ。ちょっとはっきりとはわからないです、ごめんなさい」
「わかりました、ありがとうございます。あ、じゃあ、折角なのでこれ、ください」
俺はレジの横で保温されていた缶コーヒーを乱雑に二つ掴み、カウンターへと置いた。
「はぁい、二つで280円です。…シオンと仲良くしていただいて、ありがとうございます」
レジのボタンをパチパチと打ちながら、アズサさんがしみじみとした声で言った。
俺はポケットから小銭をじゃら、とトレーに出す。
「あの子、村の外から帰ってきてから、なんだかすっかり斜に構えてしまって…。口は悪いし、何を考えているのか分からないし。でも、本当は悪い子じゃないんですけどね」
「この前少し言うてはった、外の学校…でしたっけ」
「そうなんです」
手際よく会計を済ませ、お釣りを受け取る。アズサさんから手渡された温かな缶コーヒーを、そのまま上着のポケットへと滑り込ませた。じんわりとした熱が、凍えていた指先に伝わってくる。
「シオンがそうなってしまった理由って…アズサさんも、知らないんですか?」
「…話してくれたら、こっちも楽なんですけどね」
そう言って少しだけ視線を落とした彼女の顔には、この因習の狂気など微塵も感じられなかった。そこにあるのは、ただ純粋に、不器用な弟の行く末を心配している、どこにでもいる優しい一人の姉の表情だった。
「ケイさんも、もうこの村の大事な仲間ですし…あの子と仲良くしてあげてもらえると、私はとっても嬉しいです」
「はぁ…そう、ですね。とりあえず、ちょっと探してみますわ」
「はい、ありがとうございましたー!」
アズサさんの明るい見送りの声を背中に受けながら、俺は小島商店を後にした。
外の空気は、痛いほどに冷え切っている。
ポケットの中の二つの缶コーヒーの熱を確かめながら、俺はアズサさんに教えられた、村外れの池へと向かって、雪道を急いだ。
◇
「おった…ほんま、こんなとこ、何がええねん…」
アズサさんに言われた通り、村外れのため池へと足を運ぶと、探していた男の姿があった。
どんよりとした鉛色の空の下、周囲の鬱蒼とした杉林に囲まれた池の周囲は、息が詰まるほど冷え切っていた。小島シオンは、雪の積もった堤防の上にぽつんと佇み、薄氷の張った水面をじっと見つめていた。
「姉ちゃんに聞いたんか…ほんま…」
タバコをふかしながら、薄氷に覆われた池に視線を落としながらシオンはつぶやくように言った。
「ほら、これ」
俺はダウンジャケットのポケットから、もうすっかり温くなってしまった缶コーヒーを差し出した。
「すまんな」
シオンは無造作にそれを受け取り、缶のプルタブを引き抜いた。カシャ、という金属音が、静まり返ったため池の空気に鋭く響く。
俺もシオンに並ぶ様に池に向かって立ち、切り出した。
「なあ、教えてくれ」
「…何をや」
シオンは缶コーヒーを口元に運ぶ手を止めず、冷淡な声で応じる。
「なんで俺なんや。前は知らん言うとったけど、なんか理由があるんやろ」
シオンはぬるいコーヒーを一口啜り、薄氷の張った池を眺めたまま、しばらく沈黙した。
その沈黙に耐えきれず、俺もタバコに火をつける。ライターの火を近づけると、チリチリと紙の爆ぜる音がして、先端が赤く燃え上がる。冷たい風が撫でていく。
俺たちの吐き出す白い息と、タバコの紫煙が、混ざり合いながら消えていく。
「…村役場、村長執務室に、古臭い箱がある。あのおっさん、大事な決断をするときは必ず独りで執務室に籠るんや」
「古臭い、箱…」
「何が入っとるかは、僕も知らん。お前の曾祖父さん、シバが死んだときも中でコソコソやっとったらしいわ。僕はガキやったからよう知らんけどな」
シオンは自嘲気味に笑い、空になった缶を雪の上に置いた。
そこに、なにかヒントがあるのか…。
どうやって忍び込み、その箱を開けるのか、課題が色々脳裏を駆け巡ったが、それよりも気になることがあった。
「…シオン、お前はなんでここまで俺に教える?観察するだけやったら、俺がこのまま種馬として腐っていくのを見とればええはずや」
俺の問いに、シオンの表情が微かに歪んだ。
「終わりを、見届けるだけやったらな…」
そして、鋭い目付きで俺を射抜く。
「ここでお前を殺したったら、ええねん」
「――っ」
冗談とは思えないその雰囲気に、俺は数歩後退りした。
「…冗談や」
シオンはふっと視線を外し、再びタバコを深く吸い込んだ。
そのとおりだ。この村は近交弱勢の限界を迎えている。
「お前という『種』を殺せば、勝手に腐っていくやろ。でもな、それやと村そのものを腐らせ、終わらせることはできへんねん。お前以外にも、『種』がおったらどうする?村を存続させるために、適当な『種』を拾てきたらどうする?」
そうだ、俺を殺したからって、解決する話じゃない。
400年もの間、血を綯い続けてきた狂気の因習そのものを根絶やしにしなければ、第二、第三の『浦部ケイ』が、都会からこの村へと誘い込まれるだけかもしれないのだ。
「やから、僕もほんまの理由が知りたいねん」
シオンの視線が、遥か遠くの村の中心、商店の灯りがある方角へと向けられる。
「…アズサ…姉ちゃんは、この村の狂気を本気で『家族の温もり』やと信じとんねん」
シオンの声が、苦い後悔を孕んで震えた。
「僕は、一回外に出た。都会のまともな空気も、倫理も知った。やから戻ってきたとき、姉ちゃんを連れ出そうと思った。何回もや。でもな、あの人は『ここが一番幸せなんだ』言うて、聞く耳持たんのや。…外を知らん、純粋に育てられた人間にとって、この村は完璧な聖域なんや」
シオンは視線を下げ、雪を蹴り、自分の弱さを吐き出すように続けた。
今朝のカエデさんとの問答を思い出す。確かに、心からこの村を愛している彼女たちには、俺たちの言葉はどうやっても、届かない。
「姉ちゃんをここに一人残して逃げるなんて、僕にはできんかった。かと言って、一緒にここに染まることもできん。…僕は、姉ちゃんが信じてる『幸せな村』を壊す度胸もない、かといって見捨てることもできん、ただの臆病な道化なんや」
彼は真っ直ぐに俺を見た。
「この関西訛りもそう…僕のちっぽけな、反抗や」
その表情には既に、冷笑はなく、自嘲と諦めのような色を宿していた。
「ケイ。お前はまだ、この村の住民になりきってない『異物』や。…僕が壊せんかったこの檻を、お前なら、その外の視点でぶち壊してくれるんちゃうかって。僕は…お前やったらこのクソみたいな悪夢を終わらせてくれるんちゃうかって」
「…勝手な言い分やな」
「ああ、クソやろ。…でもな、あの箱を開けて、トウジと対峙して、真実にたどり着けるのは、お前や。選ばれた『種』である、お前だけや」
必死で、切実な彼の想いは、俺の心を突き刺した。
選ばれた『種』。その言葉は、俺の決意を更に固くさせたのだ。
タバコの吸殻を携帯灰皿に押し込み、俺はシオンを見据えて静かに言った。
「わかった。箱、開けに行こか」
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