第39話 D
(あかん…)
俺は湧き上がる衝動を必死に抑え込み、そっとカエデさんの身体を引き離して、その目を見つめた。
彼女という、眼の前に吊り下げられた甘美な果実を毟り取り、貪り食うことは簡単だ。
だが、それは彼女の『常識』と『優しさ』を都合のいい隠れ蓑にして、俺自身が彼女を搾取するのと同義だ。ここで流されたら、俺は二度と俺には戻れなくなる気がする。
(直視するんや。現実から目を逸らすな)
己にそう強く言い聞かせ、意を決して口を開いた。
「カエデさんの気持ちは…わかった。でも俺は、少なくとも今は、それに応えることはできん」
喉の奥を震わせ、明確な拒絶の意志を伝えて、彼女の肩からそっと手を離した。
カエデさんは一瞬だけ不思議そうな顔をしていたが、やがて小さく頷いた。少しは、俺の言いたいことが届いてくれたのだろうか。
「…それにしても、どないしてここに入ってきたんや。鍵、締めとったはずやけど」
「ここの長屋はリフォームされていますが、鍵は昔のままなんです。元々お父さんが管理していた物件なんです。鍵は、ほら」
カエデさんはそう言って上着のポケットから、古びた鍵を取り出して見せてくれた。
俺がトウジさんから預かっているものと、全く同じ造りのスペアキー。この平和すぎる村では、防犯という概念そのものが必要ないのだろう。
「はぁ…とりあえずな、もう勝手に部屋に入ってきたらあかんで、ほんまに…」
「赤ちゃんを授かるには、ケイさんの気持ちも大事ってことが、わかりましたから。大丈夫です。次は、ちゃんと聞きますね」
言葉の着地点はまだ少しだけ、決定的にズレていたが、それでも「襲ってはいけない」という最低限のラインだけは、なんとか伝わったようだった。
「…ああ、そうしてくれ。とりあえず、今日はもう帰り」
「はい」
ポケットから取り出したスマホの画面に視線を落とす。
『12月6日 05:21 圏外』
外の景色を見ると、冬の山の日暮れは早く、そして夜明けは遅い。窓の向こうはまだ深い闇に包まれている。
「…まだ暗いし、送ろか」
「大丈夫です」
カエデさんはいつもの朗らかな調子で断ると、ゆっくりと玄関へと移動し、小さな靴を履いた。
振り向いた彼女の表情には、男に拒絶された悲しみも、不安も、一切存在していなかった。ただ、自らが生まれ育った村の『常識』が通用しなかったという、ささやかな困惑のみを静かにたたえていた。
「初めてでしたけど、うまく出来たと思います。ありがとうございました」
にこりと花が咲くように微笑み、律儀に頭を下げる彼女。
衣服を整えた目で見つめられ、改めてそんな風に言われると、俺はただ困惑せざるを得なかった。俺は気まずさに目線をそらし、ぽりぽりと頬を掻く。
「…まだ暗いし、足元、気ぃつけてな」
「では、また」
カエデさんはガラリと引き戸を開け、静まり返った極寒の村へと消えていった。その背中を見送った後、引き戸を閉める。
(鍵は…もう、ええわ…)
それにしても、とんでもない経験をしたものだ。
どっと一気に押し寄せてきた精神的な疲弊感に、俺はリビングのエアコンの風を見つめた。
(とりあえず…もっかい寝よ)
思考をこれ以上加熱させたら、本当に脳の血管が千切れそうだった。俺は這うようにして再び階段を上り、カエデさんの残り香がわずかに漂う布団の中へと、逃げるようにして潜り込んだ。




