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還る血の仔ら  作者: 邑沢 迅
9日目

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第39話 C

 カエデさんは驚いたように小さく目を見開いたが、拒むような素振りは一切見せなかった。それどころか、俺の涙を拭うように、その小さな両手を俺の背中へと回し、より深く身体を預けてくる。

 

 その唇は、驚くほどに柔らかく、そして温かかった。


「んん…っ」


 彼女の唇から漏れる、かすかな吐息が俺の鼓膜を、世界を支配していく。


「息が、できません…」


 少しだけ唇を離し、頬を赤らめてはにかむようにそう語る彼女を見て、俺の胸の奥から、出どころのわからない、止めどない愛おしさがせり上がってきた。


 正しいのは、きっと俺の倫理だ。

 合意のない行為は暴力であり、一方的な好意は狂気であるはずだ。


(だから、何やねん)


 そんな正論が、今更この箱庭で何になるというのか。

 彼女のなかにある「好き」という感情が、たとえ何百年もの村の因習によって歪められ、植え付けられたものだったとしても。

 この胸を焦がすような全肯定の甘やかさに、俺の摩痺しかけていた理性は、あっさりと白旗を掲げていた。


(もう、ええわ…)


 脳の奥で、限界まで張り詰めていた何かがぷつりと音を立てて融けていく。

 彼女へと向かうこの気持ちが、どうしようもない同情なのか、それとも唾棄すべき浅ましい肉欲だけなのかは、もう今の俺にはわからない。


 この村は、俺を受け入れてくれた。

 この女性ひとは、俺を受け入れてくれた。


 混迷を極める思考のなかで、だが、これだけは確定的だった。


 だったら、このどこまでも優しい狂気のなかに溺れてしまえばいい。

 この人を、カエデさんを愛して、彼女の言う通りにこの村の『家族』になってしまえば、楽になれるのだ。


 それはとても選択しやすく、俺の目の前に魅力的な果実のようにぶら下げられていた。あとは、ちっぽけな矜持や理性を捨てて、ただ手を伸ばして毟り取るだけだ。


 苦しんで抗うよりも、ずっと、ずっと簡単なことだった。


 俺は抗うことを完全にやめ、愛おしさと諦念のままに、彼女の小さな身体をさらに強く掻き抱いた。

 リビングの換気扇の回る音だけが、遠く現実の雑音のように、頼りなく響いていた。



 それからの俺の生活は、恐ろしいほどに穏やかで、満ち足りていた。


 ノートPCを開くことは二度となかった。都会での記憶の全てを、冬の雪がすべてを覆い隠すように、俺の脳裏から静かに消えていった。


 朝は、起きるとカエデさんが愛くるしい笑顔でお茶を淹れてくれる。

 昼は、村役場での業務だ。静かな環境で、仕事に打ち込む。

 夜は、種を撒く。カエデさんだけじゃない、スミレさんや、他の女性たちとの情事。


 トウジさんは毎日のように俺の元を訪れ、本当の父親のような満面の笑みで俺の肩を抱き、「良い家族だ」と褒め称えてくれた。


 俺はもう、何も見ない。

 俺はもう、何も聴かない。

 俺はもう、何も言わない。


 この村の因習を暴こうとした男は、あの日、死んだのだ。

 今の俺は、ただこの村の土に馴染み、この村の血を繋ぐためだけに生きている。


 ある晴れた冬の午後。

 ふっくらと膨らみ始めたカエデさんのお腹に耳を当てながら、俺は陽だまりのなかで深く息を吸い込んだ。


 母親の顔は、どのようなものだったか。

 実家の犬のクロは、何歳になるのだったか。

 記憶にだんだんモヤが掛かり、どうしても思い出せなかった。


 だが、この満ち足りた日々に、そんなことは、些細なことだった。


 俺の右手をカエデさんの小さな手が、そっと優しく包み込む。

 俺はただ、血の流れる一本の管として、この愛しき箱庭のなかで、永劫の静寂にどこまでも深く、深く、溺れていった。



【END② 禁断の果実】


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