第39話 C
カエデさんは驚いたように小さく目を見開いたが、拒むような素振りは一切見せなかった。それどころか、俺の涙を拭うように、その小さな両手を俺の背中へと回し、より深く身体を預けてくる。
その唇は、驚くほどに柔らかく、そして温かかった。
「んん…っ」
彼女の唇から漏れる、かすかな吐息が俺の鼓膜を、世界を支配していく。
「息が、できません…」
少しだけ唇を離し、頬を赤らめてはにかむようにそう語る彼女を見て、俺の胸の奥から、出どころのわからない、止めどない愛おしさがせり上がってきた。
正しいのは、きっと俺の倫理だ。
合意のない行為は暴力であり、一方的な好意は狂気であるはずだ。
(だから、何やねん)
そんな正論が、今更この箱庭で何になるというのか。
彼女のなかにある「好き」という感情が、たとえ何百年もの村の因習によって歪められ、植え付けられたものだったとしても。
この胸を焦がすような全肯定の甘やかさに、俺の摩痺しかけていた理性は、あっさりと白旗を掲げていた。
(もう、ええわ…)
脳の奥で、限界まで張り詰めていた何かがぷつりと音を立てて融けていく。
彼女へと向かうこの気持ちが、どうしようもない同情なのか、それとも唾棄すべき浅ましい肉欲だけなのかは、もう今の俺にはわからない。
この村は、俺を受け入れてくれた。
この女性は、俺を受け入れてくれた。
混迷を極める思考のなかで、だが、これだけは確定的だった。
だったら、このどこまでも優しい狂気のなかに溺れてしまえばいい。
この人を、カエデさんを愛して、彼女の言う通りにこの村の『家族』になってしまえば、楽になれるのだ。
それはとても選択しやすく、俺の目の前に魅力的な果実のようにぶら下げられていた。あとは、ちっぽけな矜持や理性を捨てて、ただ手を伸ばして毟り取るだけだ。
苦しんで抗うよりも、ずっと、ずっと簡単なことだった。
俺は抗うことを完全にやめ、愛おしさと諦念のままに、彼女の小さな身体をさらに強く掻き抱いた。
リビングの換気扇の回る音だけが、遠く現実の雑音のように、頼りなく響いていた。
◇
それからの俺の生活は、恐ろしいほどに穏やかで、満ち足りていた。
ノートPCを開くことは二度となかった。都会での記憶の全てを、冬の雪がすべてを覆い隠すように、俺の脳裏から静かに消えていった。
朝は、起きるとカエデさんが愛くるしい笑顔でお茶を淹れてくれる。
昼は、村役場での業務だ。静かな環境で、仕事に打ち込む。
夜は、種を撒く。カエデさんだけじゃない、スミレさんや、他の女性たちとの情事。
トウジさんは毎日のように俺の元を訪れ、本当の父親のような満面の笑みで俺の肩を抱き、「良い家族だ」と褒め称えてくれた。
俺はもう、何も見ない。
俺はもう、何も聴かない。
俺はもう、何も言わない。
この村の因習を暴こうとした男は、あの日、死んだのだ。
今の俺は、ただこの村の土に馴染み、この村の血を繋ぐためだけに生きている。
ある晴れた冬の午後。
ふっくらと膨らみ始めたカエデさんのお腹に耳を当てながら、俺は陽だまりのなかで深く息を吸い込んだ。
母親の顔は、どのようなものだったか。
実家の犬のクロは、何歳になるのだったか。
記憶にだんだんモヤが掛かり、どうしても思い出せなかった。
だが、この満ち足りた日々に、そんなことは、些細なことだった。
俺の右手をカエデさんの小さな手が、そっと優しく包み込む。
俺はただ、血の流れる一本の管として、この愛しき箱庭のなかで、永劫の静寂にどこまでも深く、深く、溺れていった。
【END② 禁断の果実】
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