第38話
脱衣所で冷たい水を拭い、新しい下着に足を通しているときだった。
薄暗い廊下の闇の奥から、音もなく、ゆらりと一人の人影が現れた。
「お風呂、まだだったんですね」
「…カエデさん」
悪びれる様子もなく、俺が風呂に入っている事実のみを問う。
聞きたいことは、それこそ山ほどあった。
問い詰めたい怒りも、這い寄るような気味悪さも、すべてが喉の奥でごちゃ混ぜになる。俺はシャツを頭から被り、声を絞り出した。
「カエデさん…何故、こんなことをしたんですか」
「何故?何故とは、何のことですか?」
質問に質問で返す彼女の不誠実さを、すかさず咎めようとした。だが、薄暗い廊下で小首を傾げるカエデさんの表情を見た瞬間、俺の言葉は凍りついた。
彼女は、怒ってもいないし、はぐらかしてもいない。本当に、何がよくなかったのか、自分の何が間違っているのかを、一ミリも理解できていない、底なしに無垢な表情をしていたのだ。
「…普通の男女はな、お互いをよく知らんまま、合意もなしにこんなことはせえへんねん」
俺はズボンを穿き、なんとか自分の身なりを人間らしく整えながら、努めて冷静に言葉を紡ぐ。だが、カエデさんは心底不思議そうに目を丸くした。
「お互いを知らないって…ケイさんのことはみんな知っていますよ。それに、村長さんも言っていました。『お籠り』を終えたケイさんは、もう既に私たちの村の一員、大切な『家族』なんだって」
「家族やったら…こんなことを、当たり前にするんか…?」
半ば呆れ果てた俺の問いに、カエデさんはクスッと、本当に他愛のない冗談を聞かされたかのように可憐に笑った。
「やだなぁ、ケイさん。お父さんとはしませんよ」
――だめだ。会話の前提が、根本から狂っている。
彼女の思考は、一般的な貞操観念を当然のものとして有している、と自負する俺とは、完全に、致命的なまでにズレていた。
彼女のなかには、近親相姦というタブーを理解する倫理はあるようだ。だが、村の教えに従って「新しく迎え入れた家族と血を綯う」ことは、彼女たちの世界における『正常』なのだ。
カエデさんは、俺の前に一歩にじり寄ると、覗き込むようにして、少しだけ不安そうに睫毛を揺らした。
「…嫌、でしたか?」
「嫌とか、そういう次元の話ちゃうねん…。あー…すまん、上手いこと言えんわ…」
俺は顔を覆い、深くため息を吐き出した。
良くも悪くも、彼女はこの村の常識しか知らない、純粋培養の無垢なのだ。
悪意がないからこそ、責め立てる言葉が見つからない。先ほどシャワーを浴びながら感じていた『犯された』という悍ましい肉体的拒絶感は、この圧倒的な道理の断絶の前に、いつの間にか鳴りを潜めていた。
代わりに、妙な、奇妙な使命感が俺の胸を支配し始める。
――この女性に、外の世界の『一般的な常識』を、どうにかして伝えなければならない。そうでなければ、俺自身の正気まで、この村のぬるい狂気にすり潰されてしまう。
だが、どう伝えれば、この何百年も煮詰められた因習の壁を穿つことができるというのか。
「…場所、変えよか。ここでは寒いやろ」
いつものスウェットに着替え終えた俺は、未だに何を納得していないのか分からない顔を続けている彼女を伴い、冷え切ったリビングへと移動することにした。
◇
電気を点け、エアコンを点ける。
やかんに水を入れ、コンロの火にかける。
換気扇のスイッチを入れ、すぐにタバコに火をつけた。
振り返ると、彼女はローテーブルの前に置かれた座布団に、ちょこんと小さく座っていた。
俺だけが、重苦しい一方通行の沈黙に押し潰されそうになっている。
「…お茶と、コーヒーがあるけど」
「じゃあ、お茶で」
シュー、とやかんが沸騰の音を立て始める。
棚からマグカップを用意し、緑茶のティーバッグをセットして、静かにお湯を注ぐ。
「はい」
「ありがとうございます」
カップを受け取る彼女の表情も、その声色も、どこまでもいつも通りだった。
だが、俺の表情がひどく浮かないものであると分かると、彼女は察したように、少しだけ雰囲気を落とした。
(そこは、『正常』やねんな…)
目の前の人間を気遣う、人間として当然の情緒の反応。彼女は決して、他人の痛みが分からないサイコパスでもソシオパスでもないのだ。ただ、根本にある世界の仕組みを、常識を、致命的に『知らない』だけ。
俺は換気扇の下へと戻り、指先で灰皿にタバコの灰を落とす。
「…さっきの、話の、続きなんやけどな」
カエデさんは、コップのお茶をふぅふぅ、と小さく息で冷ましながら、まっすぐこちらを向いた。
「あの…その、性行為…はな、そんな簡単に、誰とでもするもんちゃうねん」
女性を前にして、その単語はあまりにも言いづらかった。
急激に恥ずかしさが込み上げ、俺は彼女から視線を外して、何もない壁へと目を向ける。
「性行為…血を綯うって、ことですよね。何故ですか? 赤ちゃんを授かるのは、とてもすばらしいことですよね」
「せやねん、せやねんけど…ちゃうねん…」
うまく言葉が出てこない自分が、猛烈にもどかしい。何が違うのかを論理的に説明しようとするのに、喉の奥で言葉が霧散していく。
「お互い、時間をかけて好きになってな、『この人やったら、ええな』って、心から思てから、するもんなんや」
「私はケイさんのこと、好きですよ」
思わず彼女へと向き直ると、そこには、一点の曇りもない屈屈のない笑顔があった。
女性からの、心からの好意。
普通の街で、普通の男として生きていれば、これ以上ないほど嬉しいはずの言葉。それが今では、どうやっても文面通りに受け取れない。ただすれ違って、虚しいだけの空虚な響きに感じる。
「お父さんに言われたからとか、そういうわけじゃないんです。村長が、ケイさんをもう私たちの『家族』だ、って言ってから…なんだか居ても立っても居られなくなって」
発想からの行動があまりにも突飛すぎる。だが、彼女のなかでは、それこそが通常、世間で言うところの『好き』という感情の、最大の発露なのだろうか。
戸惑う俺に、カエデさんはさらに追い打ちをかけるように尋ねてきた。
「ケイさんは…私が、嫌いですか?」
「…そんなことない。そんなことないし、そういうことと、ちゃうねん…。ああ、もう…っ」
何故か、視界が急激に滲み、涙が頬を伝ってこぼれ落ちた。
この、どこまで行っても平行線な問答への虚しさなのか。
言葉を扱う仕事をしておきながら、何も伝えられない自分の語彙の無さへの憤りなのか。
こんなにも優しくて無垢な子が、明らかに、明確に『間違っている』ことへの、どうしようもない悲しみなのか。
「ケイさん…泣いてる…?」
立ち上がった彼女の気配が、不意に、すぐ側へと近づいてくる。
「私が…ケイさんを、傷つけてしまったのでしょうか」
「ちゃう…ちゃうねん…」
うまく、言葉にできない。
Webライターなんて愚にもつかない職業に就いて捏ねくり回していた言葉なんて、この圧倒的な現実の前では、なんの役にも立たなかった。
――不意に、やわらかな感触が俺の身体を包み込んだ。
カエデさんが、優しく俺を抱きしめていた。
「ごめんなさい。私のせいですね」
彼女から放たれる、甘やかな香りがふわりと鼻腔をくすぐる。
その体温の温かさに、俺は、理由もわからず彼女の小さな身体を強く掻き抱いた。
「あっ…」
カエデさんの小さな吐息が胸に響く。
その時、俺は――。
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