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還る血の仔ら  作者: 邑沢 迅
9日目

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第37話

(また、あの森や…)


 正確には森ではない。無数の角を持つ山羊の群れが、あまりの密度ゆえにそう見せているだけだ。

 空を仰ぐ。暗く、星も、月もない。それが本当に空であるのかさえ判別できない漆黒、あるいはただの底なしの闇。

 そして、その山羊の森の遥か向こうには――。


(やっぱり、おった)


 群れの中心で、ひときわ巨大な黒い山羊が、不気味に鎌首をもたげてこちらを凝視している。あの石室の暗黒の中で見たものと、完全に同じだ。


(お前は…何やねん。俺に何がしたいねん…)


 目が合った、そう思った瞬間。黒い山羊は、ずい、と空間を無視して俺の眼の前まで距離を詰めてきた。


 ぎちぎちと音を立てる巨大な貌が、俺を舐めるように見下ろす。凄まじい生理的嫌悪感が俺を襲い、本能的な悪寒に突き動かされて半歩後ろへと下がる。


 すると、黒い山羊の身体を構成する無数の黒い触手が、蛇のように俺の下半身へと一斉に巻き付いてきた。締め付けられ、身動きがとれない。


(やめろ…!)


 声が出ない。黒い触手は容赦なく胴を、首を、そして俺の顔までも巻き付き、世界のすべてを黒く埋め尽くしていく。


(苦しい…やめろ…やめてくれ…っ!)


「はっ…!」


 ガバ、と跳ね起きる。

 夢であった。だが、五感にべっとりとへばりつくような、紛れもない悪夢だった。


 激しい呼吸のまま、必死で枕元のスマホをタップする。

 バックライトの白い光が目を灼いた。


『12月6日 03:25 圏外』


 いつも通りなのは、そのディスプレイの表示までだった。

 自分の身体に異変を感じる。下腹部が、何か、じわりと痺れたような、よくわからない恍惚感の名残。この感覚には、はっきりと覚えがあった。


 まさか。


 手元にあるディスプレイの微かな光を隣へと向けた。


「ひぃ…っ!」


 喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。

 そこには、すう、すう、と穏やかな寝息を立てて横たわる、カエデさんの姿があった。


 この状況に、脳の処理が全く追いつかない。ドッ、ドッ、と暴れるような心音が耳の奥に響き渡って煩い。


(俺は、俺は一体…何をされた?)


 心を落ち着かせるため、寝返りを打つようにゆっくりと布団を抜け出し、音を立てないように階段を降りる。


 まさか、家にまで…いや、そもそも戸締まりはしていたはずだ。彼女はどうやってここに入り込んだ。


 まずは、シャワーを浴びよう。考えるのはそれからでいい。まずは、落ち着くんだ。


 脱衣所に入り、壁のスイッチを押して電気をつける。

 鏡に映った自分の寝間着のスウェットは、冷や汗だけではない、じっとりと何かの液体で濡れていた。俺はそれを即座に脱ぎ捨てると、洗濯機の中へと力任せに放り投げた。


 浴室に飛び込み、熱いシャワーを頭から浴びる。


 ねっとりとした不快感が残る局部を、石鹸を泡立てて必死に洗い流していくと、白い泡に薄っすらと赤みが交じる。

 そして、俺のからだを汚していたものが排水口の奥へと虚しく流れていく。


 次第に、動揺していた心が落ち着きを取り戻しつつあった。

 現状を整理しなければ。


 カエデさんの姿。

 じっとりと濡れた寝間着。

 局部の違和感。

 

 明らかだった。

 俺は、犯されたのだ。

 だが、性的な事由により行われたものでは断じてない。

 これは――。


(種の、搾取)


 そこに愛や、異性への憧れ、ロマンスなど一片も存在しない。

 あるのは、生物的な本能。


 ニュースやネットの文字越しに見ていた、痛々しい女性への性暴力。

 いざ、自身がその「被害者」という当事者になってみて初めて理解した。

 生物としての尊厳を根本から踏みにじられたような、底無しの虚無。


 男だ、女だなんて、関係ないのだ。

 シャワーの雨に打たれながら、俺はそんなことを、どこか遠い他人事のようにぼんやりと考えていた。


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