第37話
(また、あの森や…)
正確には森ではない。無数の角を持つ山羊の群れが、あまりの密度ゆえにそう見せているだけだ。
空を仰ぐ。暗く、星も、月もない。それが本当に空であるのかさえ判別できない漆黒、あるいはただの底なしの闇。
そして、その山羊の森の遥か向こうには――。
(やっぱり、おった)
群れの中心で、ひときわ巨大な黒い山羊が、不気味に鎌首をもたげてこちらを凝視している。あの石室の暗黒の中で見たものと、完全に同じだ。
(お前は…何やねん。俺に何がしたいねん…)
目が合った、そう思った瞬間。黒い山羊は、ずい、と空間を無視して俺の眼の前まで距離を詰めてきた。
ぎちぎちと音を立てる巨大な貌が、俺を舐めるように見下ろす。凄まじい生理的嫌悪感が俺を襲い、本能的な悪寒に突き動かされて半歩後ろへと下がる。
すると、黒い山羊の身体を構成する無数の黒い触手が、蛇のように俺の下半身へと一斉に巻き付いてきた。締め付けられ、身動きがとれない。
(やめろ…!)
声が出ない。黒い触手は容赦なく胴を、首を、そして俺の顔までも巻き付き、世界のすべてを黒く埋め尽くしていく。
(苦しい…やめろ…やめてくれ…っ!)
「はっ…!」
ガバ、と跳ね起きる。
夢であった。だが、五感にべっとりとへばりつくような、紛れもない悪夢だった。
激しい呼吸のまま、必死で枕元のスマホをタップする。
バックライトの白い光が目を灼いた。
『12月6日 03:25 圏外』
いつも通りなのは、そのディスプレイの表示までだった。
自分の身体に異変を感じる。下腹部が、何か、じわりと痺れたような、よくわからない恍惚感の名残。この感覚には、はっきりと覚えがあった。
まさか。
手元にあるディスプレイの微かな光を隣へと向けた。
「ひぃ…っ!」
喉の奥から情けない悲鳴が漏れた。
そこには、すう、すう、と穏やかな寝息を立てて横たわる、カエデさんの姿があった。
この状況に、脳の処理が全く追いつかない。ドッ、ドッ、と暴れるような心音が耳の奥に響き渡って煩い。
(俺は、俺は一体…何をされた?)
心を落ち着かせるため、寝返りを打つようにゆっくりと布団を抜け出し、音を立てないように階段を降りる。
まさか、家にまで…いや、そもそも戸締まりはしていたはずだ。彼女はどうやってここに入り込んだ。
まずは、シャワーを浴びよう。考えるのはそれからでいい。まずは、落ち着くんだ。
脱衣所に入り、壁のスイッチを押して電気をつける。
鏡に映った自分の寝間着のスウェットは、冷や汗だけではない、じっとりと何かの液体で濡れていた。俺はそれを即座に脱ぎ捨てると、洗濯機の中へと力任せに放り投げた。
浴室に飛び込み、熱いシャワーを頭から浴びる。
ねっとりとした不快感が残る局部を、石鹸を泡立てて必死に洗い流していくと、白い泡に薄っすらと赤みが交じる。
そして、俺のからだを汚していたものが排水口の奥へと虚しく流れていく。
次第に、動揺していた心が落ち着きを取り戻しつつあった。
現状を整理しなければ。
カエデさんの姿。
じっとりと濡れた寝間着。
局部の違和感。
明らかだった。
俺は、犯されたのだ。
だが、性的な事由により行われたものでは断じてない。
これは――。
(種の、搾取)
そこに愛や、異性への憧れ、ロマンスなど一片も存在しない。
あるのは、生物的な本能。
ニュースやネットの文字越しに見ていた、痛々しい女性への性暴力。
いざ、自身がその「被害者」という当事者になってみて初めて理解した。
生物としての尊厳を根本から踏みにじられたような、底無しの虚無。
男だ、女だなんて、関係ないのだ。
シャワーの雨に打たれながら、俺はそんなことを、どこか遠い他人事のようにぼんやりと考えていた。




