第35話
社務所の二十畳ほどの、少し大きな和室。
そこには俺と同様、すでに着替えを終えたイツキさん、アヤメさん、そしてスミレさんが待っていた。
イツキさんはいつも通りだ。真っ白な白衣に、薄い青緑色の袴。
アヤメさんはベージュのパンツに、オフホワイトのセーターといったラフな格好。
スミレさんもチェックのロングスカートに、オーバーサイズのグレーのスウェットという、こちらもとても親しみやすいラフな姿だった。
三人とも表情は普段通りであり、特段『お籠り』の疲れは見られない。それどころか、大行を終えたからか、どこか満足げですらあった。
部屋には他にも数人、村民の姿があった。だが、トウジさんとリンドウさんの姿は見えない。この席には参加しないのだろうか。
「ケイさん、お疲れ様でした」
俺の存在を気配で感じ取ったのか、イツキさんが真っ先に声をかけてくれた。
「どうも…」
「さあ、どうぞ、お掛けになってください」
促されて俺が案内されたのは、アヤメさんとスミレさんの正面の席だった。
長い座卓の上には、目を見張るような様々な料理が並べられていた。じっくりと炭火で焼かれた大振りな川魚。真ん中には、ジビエだろうか、肉の詰まった鍋が湯気を上げてぐつぐつと温かそうな音を立てている。そして、あの鮮やかな黄色い『梔子飯』。
その中で、数日前の直会でも見かけた、割烹着を着た年配の女性が忙しそうに配膳をこなしている。
圧倒的な料理の数々に目を奪われていると、すっと一枚のメモが眼の前に手渡された。
『ケイさん、お疲れ様でした』
『おつかれさまでした』
交互に並んだ二つの筆跡を読み、顔を上げる。髪を緩く束ねた年上の女性、アヤメさんと、ショートカットが愛くるしい同年代のスミレさん。二人の女性が、にこやかにこちらを見ていた。俺も引きつりそうになる頬をなんとか上向かせ、笑顔を返して会釈する。
(これが普通の飲み会やったら、どんだけ幸せか…)
これほど豪勢な食事を前に、魅力的な女性たちと囲む食卓。だが、当然ながら、今の俺はそれを素直には喜べなかった。
(この二人と、イツキさんは、ほんまに優しい)
彼らの優しさに嘘偽りがないと肌で知っているからこそ、裏でじわじわと判明しつつあるこの村の異様な目的が、耐え難いほどに際立つのだ。
『どうか、されましたか?』
『ケイさん つかれた?』
俺の曇った表情を察したのだろう、心配そうな顔で再びメモを手渡してくる二人。俺は慌ててペンを走らせた。
『大丈夫です、確かにちょっと疲れましたが』
『なら、よかったです』
『おいしいご飯 食べましょう』
そんな穏やかな筆談に花を咲かせていると、小気味よい足音が廊下から聞こえ、和室の襖が静かに開いた。
「皆さん、本当にお疲れ様でした。実に見事なお籠りでしたよ」
入ってきたのは、白衣に、深い紫色の袴をまとったリンドウさんだった。神職としての正装を崩さないその佇まいは、どこか近寄り難いほどの神聖さをまとっている。
トウジさんの姿は見当たらないが、どうやらこのお祭りの総仕上げは、村長ではなくこの空木神社の宮司である彼が直々に執り行うようだった。
リンドウさんが上座へ進むと、それまで忙しそうに動いていた村民たちが一斉に動きを止め、畳に両手をついて深く頭を下げた。室内の空気が、一瞬で厳かなものへと塗り替えられる。
彼は座卓の前に立つと、集まった俺たち四人を、我が子を見るような慈愛に満ちた瞳で見渡した。そして、おもむろに透き通った声を響かせる。
「一晩の長きにわたる沈黙の行、さぞ過酷であったことと思います。ですが、今こうして皆さんの晴れやかなお顔を拝見し、私は心の底から安堵し、そして深い喜びに震えております」
リンドウさんは一度、深く、満足そうに頷いた。
「今年のお籠りは、我が梔子村の歴史において、まさに『特別な節目』となる素晴らしき神事となりました。三戒に加えて、新しい家族――浦部ケイさんをお迎えすることができたからです」
向けられた微笑みに、俺は喉の奥がキュッと縮こまるのを感じた。
「我が村は、開祖の定めた沈黙の掟を守り、何百年もの間、現世の汚濁から血を遠ざけてまいりました。個という幻を捨て、ただ血の流れる管となることで、私たちは純粋な静寂を保ってきた。ですが、おちょぼ様は『浦部ケイ』という新たな風をこの村に与え給うたのです」
(なにが新たな風や…ただの種やろが)
リンドウさんは言葉を区切り、ゆっくりと俺に視線を移した。その瞳の奥には、底のない狂信の光が爛々と輝いている。
「神聖なるお籠りを、我ら三戒と共に完遂した。もう、ただの他所者ではありません。彼は、我ら貴き血の一部です」
(貴き血…)
やはり俺がこの村に選ばれ、招かれた理由は、その『血』にあるのだろうか。
彼の言葉の響きに呼応するように、脳裏に、あの石室で見た黒い山羊の幻覚が不意にフラッシュバックする。
散らばっていた情報の断片が、不気味な音を立てて繋がりかけている。胃の奥からせり上がる強烈な違和感を必死に堪えながら、俺は彼の言葉を聞き続けた。
「ケイさん、あなたという新しい土台を得て、この三人からも、やがて開祖の夢見し永劫の静寂を受け継ぐ、汚れなき命が紡がれることでしょう。これ以上の啓示が、この世にあるでしょうか」
(また、『開祖』…他にも誰か、言うとったな。…トウジさんやったか…)
リンドウさんは、両手をそっと胸の前で合わせた。その表情は、本当に、純粋な幸福に満ち溢れている。
「さあ、お籠りは明けました。今年も無事におちょぼ様に近づけた悦びを分かち合う、祝福の直会です。今宵は我が里の総力を挙げ、この山が育んだ尊き命の恵みを集めました。浦部さん、どうか遠慮なさらず、その血肉へと刻み込んでください」
リンドウさんが、満面の笑みでパチンと手を叩いた。
「それでは皆さん、新しき家族の誕生と、我が里の永久の繁栄を祝して――始めましょう」
その合図とともに、静まり返っていた村民たちは、特に大きな歓声を上げて盛り上がるわけでもなく、ただ静かに、大皿の川魚や、ぐつぐつと音を立てるジビエ鍋へと手を伸ばし始めた。
だが、その誰もが、どこまでも満ち足りた、恍惚とも言える表情を顔に浮かべている。
「ケイさんも、さあ、食べてください。どれも、とても美味しいですよ」
イツキさんが、いつもの穏やかな声で俺に飯椀を勧めてくれた。
アヤメさんと、スミレさんも、穏やかな表情を浮かべながら、俺に「どうぞ」と身振りで食べるよう促してくる。
目の前にある三人の、嘘偽りのない本当の優しさ。そして、座卓を埋め尽くすご馳走。それらを前に、俺はただ、戸惑いを隠せなかった。
この村が隠し持っている薄ら寒い真意と、今ここに広がっている温かな現実の温度差が、あまりにも大きすぎたのだ。




