第33話
一時間、あるいは二時間が経過した頃だろうか。いや、とうに時間感覚など、俺は持ち合わせていなかった。
完全な感覚遮断の中で、俺の肌は、この石室の不気味な『変化』を敏感に捉えていた。
凍えるような極寒の地下室を想像していたのに、四方を分厚い岩に囲まれたこの空間は、じわじわと、ネットリとした「熱」を帯び始めていたのだ。
暖房などどこにもない。あるのは、この暗闇の中で身を寄せ合う、俺を含めた四人の肉体だけだ。
(妙にぬくいな…。これは、俺らの熱か…?)
静かに座る俺達から放たれる体温が、逃げ場のない狭い石室の空気をぬるく、生暖かく変えていく。呼吸のたびに、誰かが吐き出した湿った息が俺の首筋をかすめ、冷たい天井に結露した水滴が、ぽつり、ぽつりと俺の白装束を濡らした。
視覚も、聴覚も、言語も奪われた常闇の中で、姿も見えず、音もしない他人の『体温』と『湿気』だけに包み込まれていく感覚。
それは、得体の知れない巨大な怪物の臓腑の中に閉じ込められ、生きたままドロドロに溶かされていくような、悍ましい生理的恐怖だった。
(怖い…)
そんな、あまりにも単調な感想しか出てこないほど、俺の思考は暗闇に深く侵され始めていた。
イツキさんは、今どのように感じているのだろうか。
元々目は見えておらず、暗闇には慣れているはずの彼でさえ、この濃密で息苦しい気配には、そうも言ってられないのではないか。
アヤメさんは、今どのように感じているのだろうか。
元々耳は聞こえておらず、この静寂には慣れているはずなのに、この何一つ見通せない圧倒的な暗黒は、彼女をも静かに苦しめているのではないか。
スミレさんは、今どのように感じているのだろうか。
梔子の葉を咥えずとも、最初から声は出せない彼女であっても、この五感を剥ぎ取られる空間で、恐怖を感じずにはいられないのではないか。
少なくとも、俺は―あえて自らこの儀式に参加したことを、骨の髄まで後悔し始めていた。
俺は、この先、どうするつもりだったのか。
俺が、この村の種としてなぜ招かれたかを暴いて、一体どうなるというのか。
俺は、本当は何がしたかったのだろう。
最後に女性を抱いたのは、いつだったか。
実家のクロが、一番好きなものは鹿肉だったか、それとも。
重苦しい静寂と底のない暗闇が、普段ならわざわざ思い出す必要のない記憶の断片まで、強制的に脳裏に引っ張り出してくる。思考の軸がぐにゃりと歪み、自分を定義する言葉が指の隙間からこぼれ落ちていく。
俺は、ここで何をしている。
俺は、今どこに居る。
俺は、誰だ。
不意に、多数の角を持つ山羊が、眼の前を通った。
(えっ…)
一匹、二匹、十匹…いや、数えられない。
眼の前を通る山羊に気を取られていると、急に空間が大きく広がった。
周りに森が広がる。
よく見ると…これは、森ではない。
これは、山羊だ。
多数の山羊が、森のように群れをなしている。
その後ろで、ひときわ大きな黒い山羊が、水平な瞳孔で俺をじっと見つめていた。
全てを見透かしたような眼差しに耐えきれず視線を落とすと、その体は無数の黒い触手で出来ており、一本一本がどくどくと脈打っている。
生理的嫌悪感に全身の毛が総毛立つ。
その一本が俺へとにじり寄り、足、そして、膝、太もも…そして、局部へと。
(やめろ、やめてくれ…!)
正気が完全に狂いかけた、まさにそのときだった。
ぬるい暗闇の中で、俺の右手に、何かがそっと触れた。
この石室内の湿気と異常な温度のせいで、麻痺しかけていた俺の手は、もう『それ』の正確な『温度』を、『形』を、感知することはできなかった。だが、それは迷うことなく、俺の右手を優しく、包み込んでくれた。
山羊達は、
大きな黒い山羊は、
まとわりつく黒い触手は、
その瞬間に、霧散した。
極限状態に陥った俺の脳が、恐怖のあまり勝手に作り出した幻覚なのか。それとも、実際に『それら』はそこに『在った』のか。
俺の手に触れる感触。それが生きた人間なのか、あるいは何かの肉の塊なのか。もう、今の俺には判断がつかない。
でも――そんなことはもう、どうでもよかった。
ただ、この世界の終わりのような暗黒の中で、何かが確かにそばに在る。それだけが、崩壊しかけていた俺の精神を、ギリギリのところで支えてくれた。
自分の存在すべてを肯定されたような、恐ろしくも不思議な安堵感が全身を満たしていく。
自分が今、立っているのか、座っているのかさえ、もうわからない。
これが現実なのか、それとも夢の中なのかさえ、判別できない。
脳が、身体から遊離して浮かび上がっていくような、ふわふわとした奇妙な浮遊感。
だが、その『何か』が触れている部分だけが、かすかな錨のように、俺という存在を現世へ引き留めてくれている気がした。俺は抗うことをやめ、その優しい愛撫に、ゆっくりと身を委ねていった。




