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還る血の仔ら  作者: 邑沢 迅
8日目

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35/59

第33話

 一時間、あるいは二時間が経過した頃だろうか。いや、とうに時間感覚など、俺は持ち合わせていなかった。


 完全な感覚遮断の中で、俺の肌は、この石室の不気味な『変化』を敏感に捉えていた。

 凍えるような極寒の地下室を想像していたのに、四方を分厚い岩に囲まれたこの空間は、じわじわと、ネットリとした「熱」を帯び始めていたのだ。


 暖房などどこにもない。あるのは、この暗闇の中で身を寄せ合う、俺を含めた四人の肉体だけだ。


(妙にぬくいな…。これは、俺らの熱か…?)


 静かに座る俺達から放たれる体温が、逃げ場のない狭い石室の空気をぬるく、生暖かく変えていく。呼吸のたびに、誰かが吐き出した湿った息が俺の首筋をかすめ、冷たい天井に結露した水滴が、ぽつり、ぽつりと俺の白装束を濡らした。



 視覚も、聴覚も、言語も奪われた常闇の中で、姿も見えず、音もしない他人の『体温』と『湿気』だけに包み込まれていく感覚。


 それは、得体の知れない巨大な怪物の臓腑の中に閉じ込められ、生きたままドロドロに溶かされていくような、悍ましい生理的恐怖だった。


(怖い…)


 そんな、あまりにも単調な感想しか出てこないほど、俺の思考は暗闇に深く侵され始めていた。


 イツキさんは、今どのように感じているのだろうか。

 元々目は見えておらず、暗闇には慣れているはずの彼でさえ、この濃密で息苦しい気配には、そうも言ってられないのではないか。


 アヤメさんは、今どのように感じているのだろうか。

 元々耳は聞こえておらず、この静寂には慣れているはずなのに、この何一つ見通せない圧倒的な暗黒は、彼女をも静かに苦しめているのではないか。


 スミレさんは、今どのように感じているのだろうか。

 梔子の葉を咥えずとも、最初から声は出せない彼女であっても、この五感を剥ぎ取られる空間で、恐怖を感じずにはいられないのではないか。


 少なくとも、俺は―あえて自らこの儀式に参加したことを、骨の髄まで後悔し始めていた。


 俺は、この先、どうするつもりだったのか。

 俺が、この村の種としてなぜ招かれたかを暴いて、一体どうなるというのか。

 俺は、本当は何がしたかったのだろう。


 最後に女性を抱いたのは、いつだったか。

 実家のクロが、一番好きなものは鹿肉だったか、それとも。


 重苦しい静寂と底のない暗闇が、普段ならわざわざ思い出す必要のない記憶の断片まで、強制的に脳裏に引っ張り出してくる。思考の軸がぐにゃりと歪み、自分を定義する言葉が指の隙間からこぼれ落ちていく。


 俺は、ここで何をしている。

 俺は、今どこに居る。

 俺は、誰だ。


 不意に、多数の角を持つ山羊やぎが、眼の前を通った。


(えっ…)


 一匹、二匹、十匹…いや、数えられない。

 眼の前を通る山羊に気を取られていると、急に空間が大きく広がった。

 周りに森が広がる。

 よく見ると…これは、森ではない。

 これは、山羊だ。

 多数の山羊が、森のように群れをなしている。

 

 その後ろで、ひときわ大きな黒い山羊が、水平な瞳孔で俺をじっと見つめていた。

 全てを見透かしたような眼差しに耐えきれず視線を落とすと、その体は無数の黒い触手で出来ており、一本一本がどくどくと脈打っている。


 生理的嫌悪感に全身の毛が総毛立つ。

 その一本が俺へとにじり寄り、足、そして、膝、太もも…そして、局部へと。


(やめろ、やめてくれ…!)


 正気が完全に狂いかけた、まさにそのときだった。

 ぬるい暗闇の中で、俺の右手に、何かがそっと触れた。


 この石室内の湿気と異常な温度のせいで、麻痺しかけていた俺の手は、もう『それ』の正確な『温度』を、『形』を、感知することはできなかった。だが、それは迷うことなく、俺の右手を優しく、包み込んでくれた。


 山羊達は、

 大きな黒い山羊は、

 まとわりつく黒い触手は、


 その瞬間に、霧散した。


 極限状態に陥った俺の脳が、恐怖のあまり勝手に作り出した幻覚なのか。それとも、実際に『それら』はそこに『在った』のか。


 俺の手に触れる感触。それが生きた人間なのか、あるいは何かの肉の塊なのか。もう、今の俺には判断がつかない。


 でも――そんなことはもう、どうでもよかった。


 ただ、この世界の終わりのような暗黒の中で、何かが確かにそばに在る。それだけが、崩壊しかけていた俺の精神を、ギリギリのところで支えてくれた。


 自分の存在すべてを肯定されたような、恐ろしくも不思議な安堵感が全身を満たしていく。


 自分が今、立っているのか、座っているのかさえ、もうわからない。

 これが現実なのか、それとも夢の中なのかさえ、判別できない。

 脳が、身体から遊離して浮かび上がっていくような、ふわふわとした奇妙な浮遊感。


 だが、その『何か』が触れている部分だけが、かすかな錨のように、俺という存在を現世へ引き留めてくれている気がした。俺は抗うことをやめ、その優しい愛撫に、ゆっくりと身を委ねていった。


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