第30話 B
逃げることは簡単だ。車もある。今すぐ長屋からキーを持って来て、アクセルを踏み込めば、いつでもこの村から逃げ出せる。
だが、俺の足は長屋へ引き返す方向ではなく、村役場へと向いていた。俺の中の何かが、俺の思考の奥底で、冷徹に問いを投げかけていたからだ。
――『何故、俺でなければならないのか』。
シオンの言う通り、ただ限界を迎えた血に外の『種』を交ぜたいだけなら、わざわざ遺産相続などという、面倒で回りくどい方法で俺を取り込む必要はないはずだ。この村は完全に外部との接触を断っている隠れ里ではない。他者だって自由に立ち入ることができるし、男なんて単純だ。若い女が少し誘いさえすれば、いくらでも他所から都合のいい種を引っ張ってこられるだろう。
なぜ、それをせず、わざわざ『浦部ケイ』でなければならないのか。
そこに、この村が隠し持つ本当の『核』があるはずだ。
棒のように強張って動かない足を、無理やり前へと引きずりながら考えていた。雪を踏み締める感覚が酷く遠い。
だが、歩き出せばいずれ辿り着く。冷たい雪の向こうに佇む村役場は、決して幻覚ではなかった。
「寒かったでしょう。さあ、入ってください」
村役場の戸を開けると、トウジさんがいつも通りの笑顔で出迎えてくれた。
戸を閉めると、室内の暖かい熱気が冷え切った身体を包み込む。けれど、俺の胸の中では、先ほどシオンとの会話で突きつけられた最悪の疑念が、ドロドロと黒い渦を巻いていた。
(近親交配…血を繋ぐための種馬…)
心臓が早鐘のように鳴り響き、今すぐこの場から叫びながら逃げ出したかった。だが、ここで動揺を見せるのはよくない。俺は引きつりそうになる頬の筋肉を必死に抑え込み、なんとか平静を装って声を絞り出す。
「いやあ、すごい雪ですね。外、前が見えんくらいになってますわ」
「ええ、今年のお籠りはなかなか大変そうですね」
トウジさんは嬉しそうに目を細め、淹れたての温かいお茶を差し出してくれた。その気遣いさえ、今はなにか裏があるのではないかと疑ってかかってしまう。俺は湯呑みを震える手で受け取り、意を決して本題を切り出した。
「あの、トウジさん。…俺は今夜、どうすればええんでしょうか。見届け役として、どこで見とけば…」
「おや、ケイさん。何をおっしゃるんです」
トウジさんは心底不思議そうに首を傾げると、ふふ、と笑った。その瞳には、悪意など一滴も含まれていない。そこにあるのは、純粋な、底なしの善意だけだ。
「見届けるだけだなんて、とんでもない。今夜の『三戒のお籠り』には、ケイさん、あなたも入るんですよ」
「…え?」
三戒だけではなかったのか。
「あなたもイツキさん、スミレさん、そしてアヤメと一緒に、空木神社の石室に籠るんです。この村の最も大事なまつり…儀式を、あなたにも体感して頂きたくて」
「いや、ちょっと待ってください。俺は余所者ですし、そんな大切な儀式に入るわけには――」
何故よそ者である俺が、伝統的な儀式の当事者として参加することになるのか。
トウジさんの笑顔の裏にある真意を汲み取ることができず、俺は激しくうろたえてしまう。目の前で穏やかにお茶をすするトウジさんの顔が、急に得体の知れない怪物のように見えてくる。
断りたい。今すぐ「やっぱり辞めます」と言って長屋に荷物を取りに戻りたい。だが、トウジさんの瞳はどこまでも優しく、まっすぐに俺を捉えて離さなかった。その「拒絶を一切想定していない純粋な目」が、どんな強硬手段よりも重く、俺の身体を縛り付けていた。
「大丈夫ですよ、ケイさん。何も心配することはありません。アヤメたちもね、あなたと一緒に籠れることを、本当に喜んでいるのですから。皆、あなたのことを、仲間、家族だと思っているんですよ」
昨日の俺なら、この言葉に感極まって涙を流していただろう。だが、真実を知ってしまった今では、背筋を這い上がってくる薄ら寒い何かにしか聞こえなかった。
だが――と、俺は湯呑みを見つめたまま歯を食いしばる。
アヤメさんや、スミレさん、イツキさんがこれまで俺にくれた優しさは、決して偽物ではないはずだ。この「梔子村」という外界から隔離された箱庭で、ただ純粋培養されただけの、狂おしいほどの無垢。彼女たちは、村のシステムに無自覚に従っているだけだ。
あの優しさを、俺の都合で裏切りたくはない。だが、このままみすみす種として取り込まれることも、絶対に御免だ。
(…なら、ここはあえて乗る。儀式の内側に入り込んで、この村の真意と『俺である理由』を探ってやる。逃げるのはそれからでも遅くはない)
俺は深く息を吐き出し、湯呑みを机に置くと、トウジさんを見据えて小さく頷いた。
「…わかりました。至らない点もあるかと思いますが、よろしくお願いします」
「おお、受けていただけますか! よかった、本当に嬉しい。さあ、すぐにお召し替えの準備をしましょう」
トウジさんは我が事のように顔を綻ばせ、立ち上がった。
こうして俺は、『三戒のお籠り』へと、自らの意志で足を踏み入れることになった。




