第31話 A
――X年後。
「…お客さん、お客さん。起きてください。もうすぐ着きますよ」
低く穏やかな声に肩を揺すられ、俺はハッと目を覚ました。
自分がいつの間にか深い眠りに落ちていたことに気づき、軽く頭を振って意識を覚醒させる。上着のポケットからスマートフォンを取り出し、寝ぼけ眼のまま画面を指で弾いてロックを解除した。
いつもなら、通知のバッジや未読のチャットが画面を埋め尽くしているはずだった。だが、液晶画面の右上に表示されているのは、見慣れたアンテナのマークではなく、無機質で冷たい『圏外』の二文字だけだった。
(電波が届かない場所が、まだ日本にはあるんだな…)
俺は自嘲気味に苦笑し、スマホをポケットの奥へと戻した。代わりに指先に触れたのは、カサカサと音を立てる一通の手紙だった。
『遺産相続に関するご案内』
弁護士から届いた、奇妙な手紙。それが、俺が「梔子村」へと向かうことになったすべての始まりだった。
東京でのWebディレクターとしての生活は、思い出すだけでも吐き気がするほど過酷を極めていた。
秒刻みのスケジュールに追われ、クライアントとユーザーの板挟みになり、SNSを開けば中身のない罵詈雑言やマウントの取り合いが嫌でも目に飛び込んでくる。数字のプレッシャーに四六時中殴られ続け、俺の精神は完全に擦り切れ、重度の不眠症に陥っていた。会社に退職届を叩きつけ、文字通り着の身着のままで飛び出したこの旅は、俺にとって手続きという名の、ただの現実逃避だった。
車の窓の外を見る。そこには、息を呑むような白一色の世界が広がっていた。
昨日から降り積もっているという雪は、世界のすべての音を圧殺するように深く、深く、静かに地表を覆い尽くしている。車のエンジン音以外、何も聞こえない。
「いやあ、今年は例年より雪が深くて。都会から来られたんですよね。驚かれたでしょう」
バックミラー越しに、中年のタクシー運転手が気さくに目を細めて話しかけてきた。
「ええ、びっくりしました。でも、すごく綺麗なところですね。空気が驚くほど澄んでいて…東京のあの騒音に比べたら、まるでおとぎ話の世界みたいです」
「ははは、殆ど人も寄り付かへんとこですから。おとぎ話っていうのも、あながち間違いやないかもしれませんね」
運転手の他愛のない世間話が、俺の強張っていた胸の奥を不思議と解きほぐしていく。他所者でしかない俺に対して、これほど温かく、壁を作らずに接してくれる人間がまだいたのかと、奇妙な感動さえ覚えていた。東京の、誰もが他人を値踏みし合うような空気とは正反対だった。
タクシーが、一本道の終着点にある古い木造の建物の前で静かに停車した。
「村役場」と書かれた、雪に埋もれかけた看板が掲げられている。
俺は料金を払い、重いビジネスバッグを抱えて車を降りた。ドアが閉まると、再び完全な無音が世界を支配する。キンと冷涼な空気が肺を満たし、澱んでいた頭がすっきりと冴え渡っていくのが分かった。
キュッ、キュッ、と新雪を踏み締める自分の足音だけを聴きながら、俺は役場の重い木目の引き戸に手をかけた。
ガラガラと音を立てて開いたその先は、しんと静まり返ったオフィスだった。妙に神聖で、どこか浮世離れした雰囲気を醸し出している。
「すいません。お手紙を頂いて参りました」
俺が静寂に向かって声をかけると、受付の奥から一人の男がゆっくりと姿を現した。
初老の男性だった。役場の制服だろうか、よくあるベージュのジャンパーに黒のスラックスという出で立ちをしていた。
男性は俺の姿を認めると、胸の奥底まですべて見透かされるほどに深く、優しい笑顔を浮かべた。
「こんにちは。ようこそ、梔子村へ」
男性は丁寧にお辞儀をし、圧倒的な赦しを感じさせる声で名乗った。
「私は浦部カズラ。――この村の、村長です」
村長と名乗った男性は、俺が手に持っていたスマートフォンの画面を一瞥し、それから慈愛に満ちた目で目を細めた。
「都会はさぞ、うるさかったでしょう」
「あ…はぁ…そう、ですね」
この村長の言葉が、何故かやけに耳に残った。何でもない慰労の言葉が、救いとなって胸を満たしていった。
「小島、ミツル様ですね」
名を呼ばれ、改めて村長の顔を見た俺は、小さな違和感を感じた。
その耳が、不自然なほどに、尖っていたのだ。
【END① 梔子の苗床】
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