第30話 A
一人残された俺は、狂った村から一刻も早く逃げ出したかった。
シオンの背中が深い雪に拐われて消えていく。その瞬間、俺の頭の中で張り詰めていた何かが、音を立てて派手に切れた。
なりふり構っていられる状況ではなかった。俺は回れ右をすると、積もった新雪に足を取られそうになりながら、長屋へと向かって全力で走り出した。
キュッ、キュッ、という雪を踏みしめる音が、今度は俺を急かす悪魔の足音のように聞こえる。心臓が肋骨を内側から激しく殴りつけ、冷たい空気が容赦なく肺を焼き焦がす。
(全部嘘やったんや。何もかも、最初から仕組まれとったんや…!)
アヤメさんのあの無邪気で無垢な笑顔も、スミレさんの優しさも、イツキさんの言葉も、トウジさんの仏のような慈愛も、すべては俺という哀れな他所者を檻に嵌め、都合のいい家畜として飼い殺すための、甘い甘い蜜に過ぎなかったのだ。
荒い息を吐きながら長屋へと飛び込み、鍵もかけずに戸を閉める。荷物をまとめる時間すら惜しかった。俺は下駄箱の上に乱雑に置いていた愛車のキーをひったくるようにして掴み取った。
そのまま外へ飛び出し、村役場の駐車場に停めっぱなしだったコンパクトカーの運転席へと滑り込む。震える手でキーを差し込み、力任せに回した。
ガガガ、と短いクランキングののち、凍りついていたエンジンが咆哮を上げる。排気音が静寂極まる白い集落に大きく鳴り響いた。
「頼む、動いてくれ…!」
クラッチを踏み、シフトレバーを1速入れて、乱暴にギアを噛ませる。タイヤが雪を激しく跳ね飛ばし、数度の空転の後、車体は猛然と加速を始めた。バックミラーに映る村役場の影が、見る見るうちに小さくなっていく。
目指すは、この梔子村と外界を繋ぐ唯一のルート――あの長い一本道だ。あの暗いトンネルさえ抜けてしまえば、電波が繋がり、都会へと戻れる。
雪が激しく打ちつけるフロントガラスを睨みつけ、ワイパーを最速で動かしながら、俺はひたすら車を走らせた。民家が途絶え、周囲の景色が白い山道へと変わっていく。
もうすぐだ。あの暗い穴を抜ければ、俺は人間に戻れる。
しかし、チェーンすら装着していないノーマルタイヤでの雪道走行など、自殺行為だった。
眼前にそのトンネルの入り口が見えた瞬間、タイヤが空転し、コンパクトカーはみるみるうちに制御を失っていく。
「…っ!?」
悲鳴と共に、俺は親の敵のようにブレーキペダルを踏み抜いた。ABSが起動し、ガッ、ガッ、ガッと激しい振動が伝わる。タイヤがロックするのは避けられたが、それでも車体は悲鳴を上げながら斜めに滑る。
トンネルの入り口へと衝突する寸前で、なんとか車はストップした。
パニックになり、ギアをバックに入れようとした、その時だった。
コツ、コツ。
静まり返った車内に、運転席の窓ガラスを軽く叩く音が響いた。
びくりと全身の肉が跳ねる。恐る恐る、視線を右へと向けた。
窓のすぐ向こう。降りしきる雪の中に、一人の男が立っていた。
いつも通りの、穏やかで、何もかもを包み込むような慈愛に満ちた笑顔。
トウジさんだった。
彼は白い息を吐きながら、車のドアノブに手をかけた。
カチャリ、とドアが開く。
「おや、ケイさん。そんなに急いで、一体どこへ行くんです?」
トウジさんはいつもの優しい声で語りかけながら、運転席へ身を乗り出してきた。そして、怯えて硬直している俺の肩へ、そっと手を置いた。
「山の雪道は危ないですよ。さあ、みんな役場で待っています。あなたのお籠りの衣装も、用意していますので。さあ」
トウジさんが微笑みながら、俺を車外へと促す。その彼の背後、白い闇の向こうから、無数の影がじわじわと這い出てくるのが見えた。
雪かき用のスコップや鍬を持った、村の男たち、女たち、老人たち。
彼らは全員、今朝、俺が村道ですれ違ったときと全く同じ、誇りと喜びに満ちた笑顔を浮かべていた。
「さあ、戻りましょう、ケイさん」
「新しい家族を、みんなで待っていたんですよ」
何十人もの同じ造形の笑顔が、無言で俺を取り囲む。
抗う力など、最初から残っていなかった。俺の視界は、底の抜けた暗黒へと、真っ逆さまに突き落とされていった。




