第26話
長屋を出て、雪を踏み締めながらたどり着いたのは、昨日トウジさんに言われた、村役場の隣にある古い公民館だった。
重い木目の引き戸を開けると、そこは、い草の匂いが微かに残る、しんと静まり返った広々とした和室だった。
部屋の端には、完璧に検品され、端正に畳まれた真っ白な着物が美しく積み上げられている。作業はもう、すっかり終わっているようだった。
その白装束の前に、トウジさんの娘であるアヤメさんがちょこんと正座していた。彼女は俺の姿を認めると、初日に村役場で見せたものとは少し違う、無邪気な笑顔を浮かべた。すぐに膝の上のメモ帳にペンを走らせ、丸い文字をこちらに向けた。
『ケイさん こんにちは おてつだい すごく うれしいです』
彼女が差し出すメモは、スミレさんの流暢で丁寧な文面とはだいぶ違って、幼いと言うか、簡潔で簡素なものだった。
「こんにちは、アヤメさん。…あれ、もう準備は終わってしもたんかな」
俺は頭を下げながら、積まれた白装束を指差す。
すると彼女は子供のように、ふふっ、と声を出さずに笑って、再びペンを動かした。
『がんばったから もう終わりました おとなり どうぞ』
「あ…ありがとうございます」
勧められるまま、俺は彼女の隣に腰を下ろした。
アヤメさんの横顔を見る。彼女の耳は、外界の音を一切拾わない。どうしても、さっき長屋の換気扇の下で見た、スマホのアルバムの記憶が脳裏をよぎる。
――ピタリと重なった、この村の人間の、全く同じ顔のパーツ。
目の前にいるアヤメさんの顔も、スミレさんやトウジさんと、AIが同一人物と誤認するほどに酷似しているのだろうか。そう思うと、背筋に冷たい汗が伝う。
そんな俺の硬直に気づくはずもないアヤメさんは、不思議そうに首を傾げたあと、メモを書いて俺へと示した。
『都会 って どんなところですか?』
きらきらとした純粋な瞳が、俺の顔をじっと見つめている。
俺は彼女のメモ帳とペンを少しだけ借り、たどたどしく文字を書き込んだ。
『人が多くて みんな静かに毎日スマホを見てる けど うるさい場所です』
書き終えて手渡すと、アヤメさんは、一文字ずつ丁寧にそれを読む。
『静か なのに うるさい?』
俺はコクリと頷き、続きを綴る。
『話さない けど 罵り合う』
メモを渡し、ポケットから自分のスマホを取り出して指さした。アヤメさんは納得したように頷くと、ささ、と文字を書く。
『なぜ?』
簡潔だが、核心をついた疑問に俺は少し戸惑う。
「なんでやろな…」
彼女にどう伝えようか、続きを懸命に考える。伝えたいことが言葉に、文字になかなかできない。何のためのライター稼業なのか、と自嘲が滲む。
だが、そんな俺を急かすこともなく、アヤメさんは辛抱強く待っていてくれる。
少し考えた後、俺は再びペンを走らせた。
『皆 不安なんです だから 安全な場所から だれかに 石を投げる おれも同じ』
石を投げる、という表現が正しいのかは、わからない。でも、あの世界の本質はそうだと感じていた。
それを見た彼女は、ひどく悲しそうな、いたわるような目で俺を見つめ、新しいページに文字を走らせた。
『ケイさんも 同じ?』
『そう おれも 同じ』
『なぜ?』
『勝つために そうするしか ないからです』
少し語弊があるのかもしれない。だが、ネットの世界は声が大きい者が勝つ。そして、その内容の刺激が強ければ強いほど、勝ちやすいのだ。
『だれと たたかってる?』
勝つとは、他者より先んじること。俺の場合、煽り文句でPV数を稼ぎ、金を稼ぐこと。その内容が合っていようが、間違っていようがお構いなしだ。
(そりゃ俺も、最初は書きたいもんがあった。でも、それじゃ勝てんのや)
何かを伝えようとペンを持つが、胸を突く虚しさに手が止まる。
その少し震えた手に、アヤメさんの温かい手が、そっと重なった。
「アヤメさん…」
俺の手からペンを取り、彼女はメモにこう書き記した。
『わたしも この村も 静かです だれも たたかってません』
喉の奥が、目元が、熱くなるのを感じた。
アヤメさんはさらに文字を紡ぐ。
『今 ケイさんは 石を もっていますか? たたかっていますか?』
胸の奥で、カチリと音がした。朝から俺を縛り付けていたあの「同じ顔のアルバム」への恐怖の鎖が、ハラハラと解けていく。
『おつかれさま』
言葉のプロであるはずの俺が、ネットの海でいくら言葉を尽くしても、誰にも言ってもらえなかった労い。数字のプレッシャーや、SNSの誹謗中傷という『雑音』に追われ、すり減り続けていた俺の精神を、この耳の聴こえない女性の、たった六文字が優しく包み込んでいく。
いい年をして、声を出して泣いた。
泣くのなんて、一体何年ぶりだろうか。しかも人前で、こんな情けない姿を晒して。でも、アヤメさんは、俺が落ち着くまで、何も言わずにずっとそばに居てくれた。
彼女の顔が誰に似ていようが、この村の血筋がどれほど奇妙だろうが、そんなことはもう、どうでもいい。そう思った。
(…この村の教えは、本当に間違っとるんやろか)
昨夜の経典の言葉が、再び脳裏に木霊する。
外の世界の雑音を遮断し、この内なる静寂を「美徳」として、こんなにも大切に守っているこの村の在り方。それに対して、障害をただの「欠損」として憐れみ、多様性、DEIなどという虚飾で飾り立てては有難がる、世界の流れ。
――本当に狂っているのは、どちらだ?
「アヤメさん」
俺が口を開くと、彼女は言葉は聴こえなくても、俺の喉の振動と表情で察したように、嬉しそうに微笑んだ。
(俺も…この人と一緒に、この村で、この静けさの中に、ずっとおらせてもらえるなら…)
ポケットに押し込めてきたあの『疑念』は、アヤメさんのくれる圧倒的な赦しの前に、跡形もなく融けて消え去ろうとしていた。
障子の向こう、外の世界では、世界のすべてを圧殺するような重い雪が、しんしんと、降り始めていた。




