第24話
長屋への帰り道、外は既に夜の帷が降りていた。
朝からしつこく降り続いていた雪もようやく鳴りを潜め、見上げた夜空には、凍てつくような寒さの中で美しい星々が凛と輝いている。都会では決して見ることのできない、吸い込まれそうなほどの満天の星空。
村役場で、スミレさんの隣で感じたあの穏やかな沈黙の心地よさが、まだ胸の奥に残っていた。
(…ほんまに、このまま村の住人になってしもてもええかもしれんな)
そんな考えが、ごく自然に頭に浮かんだ。その時だった。
「あ、ケイさん。ちょうどよかったです」
雪を優しく踏み締める足音と共に、長屋のすぐ近くで声をかけられた。
「ああ、カエデさん。こんばんわ」
「こんばんわ。今日の夕食です。明日はおまつりの準備が忙しくてお持ちできないので、少し多めに入ってますよ」
カエデさんは、いつもの人懐っこい笑顔で重箱を差し出してくれた。その笑顔の温かさに、昼間のトウジさんの言葉や、スミレさんの耳に対して一瞬抱いてしまったあの酷い警戒心が、急速に霧散していくのを感じる。
「いつも、すんません。これだけ世話になっとったら、なんかお礼でもできたらええんやけど…」
「いえいえ! おまつりに参加してくれるだけで、私はとっても嬉しいので。…じゃあ、また!」
カエデさんはそれだけ言うと、小さく手を振って、少し積もった雪の中を軽やかな足取りで帰っていった。
そうは言ってくれるが、やはりこれほど一方的に世話になってばかりというのも、どこか据わりが悪い。何か別の形で返さなければ、そんな風に考えながら、俺は冷え切った長屋の引き戸を開けた。
◇
「…ほんまに、この手記は…《《むつかしい》》わ」
夕食を済ませた後、ノートパソコンを開いたものの、ルポの続きを書く気にはどうしてもなれなかった。俺は、代わりに曾祖父の手記『梔子沈黙律』の解読を再開していた。
やはり文字の潰れや掠れが酷く、すんなりと読み解けない部分が多すぎる。
それでも、執念でどうにか文字起こしができた部分を、パソコンの画面上で凝視する。
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第二章:聴の戒
言の葉は、血の■度を蝕む■液なり。
俗世の■■、他者の■願、理非の論。
これらすべて、血脈に流るる原初の■律を掻き消す雑音にほかならず。
■の聖者は、音を■つ。
鼓■を破るにあらず。
その耳を■空へと通ずべし。
外の声を聴かず、内なる迷いをも聴かざる者。
その■■は、血の拍動のみを奏でる審判の庭なり。
先天に音を持たぬ者は、俗世の■妄より永久に解き放たれし審判者なり。
――――
聴の戒…。これは『聞かざる』のことだろう。
『雑音』『…を破るにあらず』『先天に音を持たぬもの』。
無理に耳を塞ぐのではなく、最初から耳が聞こえない者こそが穢れのない「審判者」なのだ、とでも言いたいのだろうか。あまりにも極端で、歪んだ選民思想のようにも思える。
俺は釈然としないながら、次のページの文字起こしに目を移した。
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第三章:言の戒
「我」と発するその■間、人は神より零れ落つ。
言■は真実を切り刻み、名は存在を穢し、■は心を腐らす。
誠の■■は、声を捨つ。
舌を抜くにあらず。
その■を、一筋の■黙の■と成すべし。
嘘を吐かず、名を呼ばず、己を語らざる者。
その口■は、一度として汚されぬ未来の■言を宿す器なり。
先天に声を持たぬ者は、一生を沈■の祈りに捧げし■言者なり。
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言の戒…。言わざるのことだ。
『舌を抜くにあらず』『嘘を吐かず』。
言葉は真実を切り刻む汚れであり、先天的に声を持たない人こそが、一生を沈黙の祈りに捧げる神聖な存在である、か。
これで、この村が崇める「三猿の教え」の輪郭は、なんとなくだが読み解けた。
同時に、胸の奥を冷たい指先で撫でられたような戦慄が走る。
先天的に目、耳、口に障害を持つ、あの三猿の性質を備えた子供が同時期に生まれたという、この梔子村の奇跡。
かつてリンドウさんが直会の席で恍惚としながら語っていた、『開祖の再誕』という不気味な言葉。あれは一体、何を意味しているのか。
手記には三章以降も、まだ何か続きが書かれているようだった。しかし、俺は次のページをめくろうとして、指先を止めた。
紙が随分と傷んでいる。いや…違う。これは経年劣化でボロボロになったのではない。
(これ…破り取られとるんか…?)
一体誰が、何のために、この先を処分したのか。
辛うじて、千切られたページの端に残る、読み取れそうな数文字だけを必死に画面に打ち出してみる。
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結:血の綯…
血は…
似■いし血を■い合わ…
沈黙が…
そ…
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『序』に対して『結』。おそらく、これがこの本の最後、この因習の「結論」なのだろう。
『血の……』の後に続く文字。なんと読むのだろうか。トウ…あるいは、ナ…。意味がさっぱり分からない。
『似…いし血を…』。似ている、血?
「あぁ……クソ、もう止めや」
難解な上に、肝心な部分の文字がハッキリと読めないノートを前にして、ついに俺の脳はオーバーヒートを起こしてしまった。これ以上考えても、今の段階では答えなど出そうにない。
明日も、まつりの手伝いがある。
俺は重苦しいため息を吐きながらノートパソコンをパタンと閉じ、冷えた体を温めるために、風呂に入って、早々に寝ることにした。




