第21話
朝。
いつもの通り、枕元に置いたスマホをタップして画面を点灯させる。
『12月2日 07:38 圏外』
無機質なデジタルフォントが告げる日付。だが、今朝はいつも迎える朝とは何もかもが違っていた。
ふと視線を向けた格子窓の外が、一変していたのだ。
一面の銀世界。
昨日から降り続いていた冷たい雨が、夜の間に雪へと変わったのだろう。屋根という屋根、歪な形の畑、遠くに見える山並みまでが、境界線を失ったように白く塗りつぶされていた。この周辺で暮らす人々にとっては見慣れた日常の景色なのかもしれないが、雪の積もらない都市部で暮らしてきた俺には、息を呑むほどに美しく、見たことがないほど静謐な景色だった。
しかし――
「…寒っ」
いくら冬景色が美しくとも、寒いものは寒い。現実の冷気に縮こまりながら、俺は急いで一階へと降り、エアコンの電源を点けた。寒冷地用のエアコンはこの寒気に負けじとすぐに力強い温風を吐き出し始める。トイレを済ませ、洗面所で顔を洗い、キッチンで水を一杯飲み終わる頃には、部屋はもう十二分に暖まっていた。
(せや、コーヒーがあったな)
昨日小島商店で買ったドリップバッグを思い出し、やかんの水をコンロの火にかける。コーヒーを淹れ、換気扇の下でタバコに火をつけた。さすがにあの、一面真っ白な寒空の下へわざわざ出ていく勇気はなかった。
そういえば、この村に来てから、タバコを吸う本数が目に見えて減ってきている。長屋に来てすぐに開封したボックスには、まだ数本のストックが残っている。都会にいた頃であれば、一日に一箱は確実に消費していたはずだ。
(ストレスで本数が増えるって言うしな。…ってことは、逆もまた然り、なんか?)
ゆっくりと息を吸い込むと、チリチリと紙の爆ぜる音がして、先端が赤く燃え上がる。香ばしく香気のある紫煙が口腔に流れ込む。すぅ、と肺に入れてから、ゆっくりと吐き出した。
世間でどれほど煙たがられようが、俺はこの一瞬の静けさが心から好きだ。
だが、こうしてわざわざ一本のタバコを意識して味わったのなんて、一体何年ぶりだろうか。今までの俺は、ニコチンという成分を摂取するためだけに機械的に火をつけていたのではないか。
(この村の…おかげかもな)
快適で静かすぎる環境が、削り取られていた俺の五感を少しずつ取り戻させてくれている気がした。先端の灰をトントンと落とし、最後に灰皿でもみ消して、冷めかけたコーヒーを飲み干した。毎日の何気ないルーティーンさえ、今では何か特別なモノのように感じられた。
◇
ダイニングのローテーブルで、ノートパソコンに向かってルポの続きを執筆していると、長屋の古い引き戸がコンコンと音を立てる。
「はーい」
「細見です。まつりの件でお伺いしました」
トウジさんだ。昨日カエデさんが言っていた件だろうか。
そのとき、脳裏には彼女の少し潤んだ瞳と、不意に包み込まれたあの温かな手の感触が、あまりにもリアルに思い出された。俺は頭をぶんぶんと振って、無理やり邪念を切り離した。
(アホか。中学生ちゃうねんから、手ぇ握られたぐらいで何を意識しとんねん…)
急いで平静を装いながら、あることに気づく。曾祖父のあの古びた手記が、少しだけはみ出した状態で置かれたままだったのだ。
これを村の人間、特に村長であるトウジさんに見せるわけにはいかない。そんな妙な胸騒ぎに突き動かされるように、俺は立ち上がる直前、手記をパソコンの下に完全に隠してから、一拍おいて引き戸を開ける。
そこには、厚手の防寒着に身を包んだトウジさんが立っていた。相変わらず、定規で測ったように左右対称の端正な顔で、穏やかに微笑んでいる。
「こんにちは。今朝、ケイさんにもお祭りへご参加頂けるというお返事を、カエデさんから聞きまして」
「ああ、そうですね。わざわざありがとうございます。俺みたいな部外者でよければ、是非、参加させてもらえたらなと」
「そうですか!では、早速一度村役場までお越しいただけますか? 詳しいご説明もありますので」
「はい、わかりました。すぐ準備するので、少々お待ちください」
そう言って、俺はそそくさと外へ出る準備を始めた。




