第20話
小島商店から長屋へと帰った俺は、PCの前に座ったものの、何を作業するでもなく、ただぼんやりと思考に耽っていた。
格子窓の外に目をやると、いつの間にか冷たい雨が降り始めている。この気温だ、明日にはきっと雪に変わるだろう、そんな底冷えのする空気だった。
何が正しいのか、誰が正しいのか。
降って湧いたような曾祖父の遺産に飛びついて、この梔子村へやってきた。そこに広がっていたのは、静かで美しい原風景と、驚くほど親切な村民たちの生活。だが――確かにその裏側で、何かが薄暗く蠢いているような違和感。
この数日間、この村で暮らしてみて、思うところは山ほどある。
村民たちの顔がどこか似通っていること。
…いや、そんなものは狭い田舎なら偶然の一致として、よくある話なんじゃないか。
手記に書かれていた妙な経典。
…それだって、歴史のある土地ならどこにでも残っている土着信仰の一つに過ぎないのではないか。
シオンのあの遠回しな警告。
…あいつは外の世界を知っているからこそ、この村の閉鎖的な部分を穿った視点で見て、偏った解釈をしているだけなんじゃないか。
(まだ三日目や。何もかもを異常やと決めつけるのは、さすがに早計やろ…)
自分に言い聞かせるように思考を打ち切った、その時だった。
――コンコン。
静かな長屋に、引き戸を小突くノックの音が響いた。
びくりと肩が跳ねる。俺は手元で無意識にいじくっていた曾祖父の手記を、なぜか咄嗟に、隠すようにしてノートパソコンの下へと滑り込ませていた。
「ケイさーん、いらっしゃいますか?」
戸越しに聞こえてきたのは、カエデさんの声だった。今日もまた、夕食を持ってきてくれたのだろう。
初日に感じた、あのじっとりとした奇妙な視線が頭をよぎる。だが、折角の彼女の好意だ。人として、他人の良心を受け取らないわけにはいかない。
「ちょっと待ってくださいね」
痺れの引いた足で立ち上がり、玄関へと向かって古い引き戸を開ける。
外には、傘を差し、ダウンジャケットにニット帽、そして厚手のマフラーをぐるぐる巻きにしたカエデさんが、惣菜の詰まった重箱を片手にちょこんと立っていた。
「こんばんは、ケイさん」
「こんばんは。…寒かったですよね、雨も降っとるし。とりあえず、中に入ってください」
「あ、ありがとうございます」
カエデさんは、相変わらずの人懐こい笑顔を咲かせる。
その曇りのない表情を見ていると、あのじっとりとした目線さえ、俺のただの思い違いだったんじゃないかと思えてくる。限界集落とか、閉鎖的な狂った村だとか、そんなホラーな先入観に一人で勝手に囚われていただけなのではないか、と。
「いつも、すんません」
「いえ、はい!今日の分です」
玄関の土間で、まだ少しだけ温かい重箱を嬉しそうに手渡してくれる。
「あの、もしよかったら、一昨日と昨日の分の空いた容器を持って帰りたいんです。…それと、ちょっとだけお邪魔してもいいですか?お話したいことがあって」
「え、あ、うん、ええですよ。どうぞ、入ってください。今お茶入れるんで、ちょっと待っててくださいね」
俺は彼女を上がらせ、台所へ向かって貰ったばかりの重箱を冷蔵庫に収めた。それからやかんに水を入れ、コンロの火にかける。
「あ、パソコンですね。私、あんまり触ったことなくて」
背後から声がした。振り返ると、カエデさんがダイニングのローテーブルに置きっぱなしにしていた俺のノートパソコンに、興味深そうに視線を注いでいた。
「散らかっとって、すんません」
俺は慌ててテーブルに歩み寄り、パソコンを手記ごと部屋の端へと寄せた。もちろん、その下にある手記が彼女の目に触れないようにするためだ。シオンの警告が、妙に頭の隅に残っていた。これを村の人間には見せてはいけない気がしたのだ。
「コーヒーでいいですか」
「はい、ありがとうございます」
小島商店でさっき買ってきたばかりのドリップバッグを開け、やかんの湯を慎重に注ぐ。なんとも言えない珈琲の芳醇な香りが、古びた長屋の空間をゆっくりと満たしていく。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
「で、話って?」
ローテーブルを挟んで、カエデさんの対面に腰を下ろした。彼女は両手でマグカップを包み込み、一口温かいコーヒーを啜ってから、少し声を弾ませた。
「今度、この村でおまつりがあるんです。十二月の恒例行事なんですけど」
「おまつり?なんか、出店とかが出る感じの賑やかなやつです?」
「いえ、もっと静かな、とっても素敵なお祭りですよ」
地域の祭り。確かに俺の地元の方でも、似たような物があったな、という記憶がぼんやりと呼び起こされる。
「そのお祭りに、是非ケイさんにも参加してほしいなって思って」
ルポを書くなら、それこそ絶好の題材になる。はずだった。
だが、なぜだろう、心の底から乗り気にはなれなかった。今日、イツキさんに思わず漏らしてしまった、「言葉に疲れた」という本音。一度口にしてしまうと、どうしてもそれに引っ張られてしまう。
『無理に語らなくていい、声を休めて』という彼の優しい言葉が脳裏をよぎる。…だが、俺には、現代人には生きていくための食い扶持が、どうしても必要なのだ。
「俺みたいな部外者も、参加してええんですか?」
問いかけると、カエデさんは少し寂しそうな、けれどひどく潤んだ瞳で俺を真っ直ぐに見つめてきた。
「何を言うんですか。ケイさんはもう、この村の一員じゃないですか」
そう言って、彼女の小さくて白い手が、テーブルの上で俺の手を不意に包み込んだ。
俺はカエデさんに対して、やましい感情は一切ないと断言できる。
だが、受け入れられたという強烈な安心感と、久しく触れていなかった女性の皮膚の温かさに、下卑た反応をしてしまいそうになる。そんな自分に、猛烈な嫌気が差した。
消えてしまいたいほどの自己嫌悪を振り払うように、俺は彼女の優しくて温かい手を、そっと、慎重に離した。
「…ありがとうございます。うん、参加させてもらいますわ」
俺の返答を聞いた瞬間、カエデさんの顔がぱぁっと綻んだ。
「ありがとうございます!。詳しいお話は、また後日させてもらいますね!」
彼女は満足したようにすっと立ち上がり、玄関へと歩みを進めたが、途中で「はっ」とした表情になって振り返った。
「あ、空の重箱! 持って帰らなきゃ」
「一応、きれいに洗うてあります。いつもほんまにすんません」
二日分の空き容器をまとめて手渡すと、彼女は胸にそれを抱えるようにして微笑んだ。
「じゃあ、また、明日」
小さく手を振って、カエデさんは長屋を出て行った。
引き戸が閉まるのを見届けながら、俺も小さく手を振り返す。
(…なんか、かわいいな)
薄暗い玄関で、俺は正直に、そう思ってしまっていた。




