第17話
曽祖父が遺した手記の解読は、まだまだ進んでいない。古めかしい崩し字や、今の時代には使われない独特の言い回しといった難解な内容――いや、それとは別の、文字を追うほどに背筋に冷たいものが走る感覚。これ以上読むのは今はやめておこうと、自分に言い訳をするように手を止めた。
時計を見ると、針はすでに昼過ぎを指していた。
(腹減ったな…)
何か食べようかと立ち上がろうとするが――。
「いたたた…っ」
足が完全にしびれてしまって動かない。それほどまでに没頭していたようだ。
ルポの続きも書かなければならない。仕事ではないので誰かに急かされるわけでもなく、当然期限などない。だが、だからこそ、今ここで書かなければ一生終わらないだろう。これまでの人生で、自分の怠惰な性格というものは嫌というほど知っている。
「よっこら…せっと」
情けない声を出しながら、痺れる足に活を入れるように床を踏み締め、どうにか立ち上がる。 窓の外を見れば、雲一つない、いい天気が広がっていた。冬の澄んだ光が部屋の中に差し込んでいる。
(面倒やし、この前シオンとこで買ったカップ麺でええか…)
台所に立ち、やかんに水道の水を注いでコンロの火をつける。
気を抜くと、すぐに食生活が乱れてしまう。これは一人暮らしをしている独身男性の共通習性だ。異論は認めよう。もし藤本家の面々が持ってきてくれる差し入れがなければ、今頃は野菜などとは一切無縁の生活が続いていたに違いない。
(俺もええ歳やしな…彼女もおらんなって久しいし、そろそろ考えなあかんのかもな)
来年には、二十代もいよいよ折り返しを迎える。結婚願望が無いといえば嘘になるが、「いつかそのうちできるだろう」と高を括って生きてきた結果が、現在のこれだ。
そんな取り留めのないことをぼんやりと考えていると、やがてシューという激しい蒸気の音が聞こえ始める。沸騰した湯を手早くカップ麺の容器に注ぎ、タイマーもセットせず適当な時間を見計らって、そのまま台所のシンクの前に突っ立ったまますすり始める。
テーブルで食べることすら省くこの横着さも、独身男性の習性の一つだろう。麺をすすりながら、これからの予定を頭の中で組み立てる。
(手記の続きはまた明日や。シオンとこでコーヒー買うついでに、ちょっとその辺うろついてみるか)
◇
長屋の古い引き戸をガラガラと開き、外へと出た瞬間、昼過ぎだと言うのに強烈な寒さが容赦なく襲いかかってきた。思わず身震いし、ダウンジャケットのファスナーを一番上まで上げる。
「今日から12月やもんな…そら冷えるわけや」
すっかり冬になったことを肌で実感しながら、長屋の鍵を閉める。
目的地であるシオンの商店へと歩みを進めていると、空木神社へと続く長い石階段のあたりに人影が見えた。竹箒を手にして、静かに階段を掃除しているイツキさんだった。
神社の直会の一件から、彼とは一度も顔を合わせていなかった。あの時の空気感を思い出すと、すこし気まずさが胸をよぎる。
「こんにちは、ケイさん」
声をかけようか、それともこのまま気づかれないように通り過ぎようか。そんな風に迷っていた矢先に、向こうから声をかけられた。
しかも、彼は俺だと正確に気づいている。本当に見えていないのだろうか。
「こんにちは。…なんで俺やてわかったんです?」
不思議に思って尋ねると、イツキさんは穏やかに微笑んだ。
「その、靴音と、雰囲気ですね。私は目が見えない分、音とか、匂いにとても敏感なんです」
イツキさんの表情には、微塵のトゲもなかった。
「そんなもんですか…今は、掃除、ですか?」
俺の手元の竹箒に視線をやると、彼は小さく頷いた。
「はい。掃き清めるのも、権禰宜の大事なお仕事です」
「そっか、お仕事か…偉いなぁ」
俺は彼のその言葉から、お世辞でも何でもなく、素直に彼自身の仕事への熱意というか、内に秘めた矜持のようなものを感じ取った。それは心からの賛辞だった。
では、自分の仕事はどうだろうか。ネットの海に消費されるだけの記事を書く俺の仕事は、決して誰かに誇れるものではない。俺一人が明日いなくなったところで、業界が困るということも絶対にない。いくらでも換えの効く部品。言葉を選ばずに言うなら、組織やシステムに都合よく使われる奴隷だ。
そんな風に、自嘲気味な暗い思考に沈み込んでいると、イツキさんがどこか心配そうな表情で俺のほうを見た。…いや、正確には彼の目は見えていないのかもしれないが、確かに真っ直ぐに視線を向けられているように感じた。
「…ケイさん、何か、悩まれているのですか」
静かに、けれど見透かすような声で問いかけられ、俺は一瞬言葉に詰まった。しかし、彼の持つ独特の静けさに背中を押されるように、口が開いていた。
「会うて数日のイツキさんに、こんな話しするのも変やねんけど…」
俺は、神職たる彼に、抱え込んでいた胸の内の悩みを少しだけ打ち明けた。




