第15話
「それだけでええんですか?」
「はい、持ちきれませんから。ロースやモモ、上質な部位だけ今日は持ち帰ります」
アズサさんは一部の部位をザックから取り出したビニール袋に詰め、他の肉を手早くブルーシートで包み、その上に大きな石をいくつも乗せた。
「明日、また車で取りに来ますから。では、帰りましょうか」
あたりはすっかり暗くなっていた。俺もスマホのライトを点けるが、広大な冬の森を照らすにはあまりにも心もとない。アズサさんのザックのショルダーストラップに取り付けられた、強力なLEDライトだけが頼りだった。
這うようにして降りてきた獣道を登り、ようやく平坦な村道へと出る。
「まずは、ケイさんの長屋に行きましょうか。お肉をおすそ分けしますので」
「はい…」
正直、俺は朝からの移動と慣れない山道でクタクタだった。足の感覚がもうほとんどない。にも関わらず、アズサさんは肉の入った重いザックと、黒いライフルケース、そしてその他の猟具を担ぎながら、息一つ乱さず余裕の笑みを浮かべている。この体力差は恐ろしい。
村の中心部に繋がる道を下りながら、歩調を合わせて気になっていたことを聞いてみた。
「そういえば、アズサさんは…その、他の村民のみなさんと同じイントネーションですよね」
「そうですね」
「シオンだけ、なんで関西訛りなんですか…?」
問いかけると、アズサさんは懐かしそうに目を細めた。
「弟はこの村では珍しく、外の大学に行っていたんですよ」
「ほう…」
「ほら、小さい村なので、みんな村役場に就職するとか、実家の農家を継ぐとかで、あんまり外に出ないんです。でもあの子はどうしても行きたいって言うから、一緒にトウジさんに掛け合ったりして…。懐かしいなぁ」
そこには、弟との思い出を懐かしむ、ごく普通の姉の姿があった。
「結局、戻ってきて親の商店を継いでるんですけどね」
「なるほど…」
そんな他愛もない世間話をしているうちに、見慣れた長屋の建物が見えてきた。ここまで三十分。俺の足はもう完全に棒だった。
暗闇でよく見えないが、長屋の玄関前に、誰かがぽつんと座っているように見える。
「あれ、誰かおるな…?」
近づくと、こちらに気づいた人影がすっと立ち上がって歩み寄ってきた。
「あ、カエデさん…」
そこにいたのは、昨日お世話になったカエデさんだった。この寒空の下、俺の夕食が入っているであろう重箱を持って待っていてくれたのだろうか。
「すんません、わざわざ…」
声をかけると、カエデさんは言葉を発せず、ふるふると首を振った。
「カエデちゃんも、鹿、食べていく?」
「…」
アズサさんが声をかけると、カエデさんは何故か、アズサさんの全身を舐めるように見つめた。アズサさんの顔、胸、腰、そして足元。順番に観察し――次の瞬間、納得したような笑顔を俺に向けた。
「いえ、私はケイさんの夕食をお持ちしただけです。はい、どうぞ」
俺の胸元に重箱を押し付けると、カエデさんはパタパタと小走りで闇の向こうへ走り去っていった。
「重箱はまた返してくれたら良いので。では」
(なんなんや…ありがたいけど、こんなクッソ寒い中、わざわざ外で待っとってくれんでもええのに…)
「ははは。勘違いしたのかな、カエデちゃんは」
アズサさんが、カエデさんの謎の行動を「勘違い」と形容した。その真意を聞き返そうとした俺の言葉を、アズサさんの言葉が遮った。
「寒いので、早く開けてもらえると助かります」
「あ、はい。いま開けますね」
ポケットから長屋の鍵を取り出し、引き戸を開ける。
居間の電気をつけ、すぐさまエアコンを稼働させた。
「お邪魔します。ライフルとかザックは、玄関の隅に置かせてもらいますね」
アズサさんは玄関脇の壁に黒いライフルケースを立てかけると、ザックから捌きたての鹿肉を取り出し、「台所、借りますね」と流れるような動作で調理を始めた。
「せっかくなので、ここでちょっと焼いちゃいますね」
お腹は背と一体化してしまいそうだった。藤本一家が持ってきてくれる田舎の惣菜も美味しかったが、一般的な成人男性としては、正直そろそろ「肉」が恋しかったところだ。
「是非、お願いします」
俺は出しっぱなしにしていたノートPCを部屋の端に寄せ、ローテーブルの上に重箱を置き、箸を二膳並べた。
(女性に食事を作ってもらうなんて、何年ぶりやろか…)
台所に立つアズサさんの後ろ姿を見ながら不意に思い出したのは、唯一のまともな恋愛だった元カノの手料理だ。「パスタを作る」と言って俺のアパートの台所を占領し、無茶苦茶に散らかした挙げ句、信じられないほど不味いものが出てきた。それ以来、誰かに手料理を作ってもらった記憶はない。
そんな苦い思い出を、ジュウジュウと肉が焼ける香ばしい匂いが吹き飛ばした。
「お待たせしました。ただ塩コショウで焼いただけですが」
その後、俺はアズサさんと共に鹿肉を堪能した。捌きたてのそれは、少しジビエ特有のワイルドな香りがしたものの、噛みしめるたびに旨味が溢れ、二人でペロリと平らげてしまった。
「手伝ってくれて、本当に助かりました。晩ご飯までお邪魔しちゃってすみません」
「いえ、俺も一人で寂しく食べるより、誰かおってくれる方が楽しいんで」
「ふふ。では、また」
アズサさんは笑顔で手を振り、夜の村道へと消えていった。
玄関の鍵を閉め、部屋に戻る。
森での出来事は、すべて俺が勝手にでっち上げた妄想だったのだ。アズサさんはとてもいい人で、ただの猟師だった。
ポケットにある、手記のゴワゴワした感触が気になったが、お腹はいっぱいで、体はクタクタだ。
もう、今日は風呂に入って眠ろう。手記を読むのは、明日でいい。




