第13話
「なんで地図アプリが使えへんねん…」
手元にある、紙に手書きされた地図とスマホを交互に見比べながら、俺は思わず毒づいた。
正直、紙媒体の地図を見ながら歩くなんて、これまでの人生で一度も経験がなかった。行きたい場所があればスマホの検索欄に入力し、音声ナビの指示通りに曲がるだけ。それが俺の世代の常識だ。
俺の毒づきは、地図アプリそのものに対してではない。この時代に、電波が一本も立たない「完全な圏外」という環境に向けられた焦燥感だった。
とはいえ、役場から北へ一キロ程度、ほぼ一本道の山登りだ。迷う要素はないし、平地なら十五分もあれば着く距離のはずだった。
だが、そんな甘い見積もりは、歩き始めて数分で無残に打ち砕かれることになる。
「はぁ、はぁ…坂が、キツすぎるやろ…」
太ももの筋肉が悲鳴を上げ、呼吸が激しく乱れる。
道自体は村の中と同じように綺麗に舗装され、両脇の側溝も泥一つ溜まっていない。だが、単純なこの急坂が俺の体力を無情に削り取っていく。
普段、ネタ探し以外は狭いアパートに引きこもってキーボードばかり叩いている運動不足の俺にとって、この登山はほとんど拷問に等しかった。
しかも、道中に街灯の類は一切見当たらない。
不安になってポケットからスマホを取り出し、画面をタップする。
『11月30日 12:11 圏外』
「これは…用事を、済ませたら、はぁ、早めに、はぁ、撤退せな、あかんな」
まだ昼過ぎだというのに、周囲の空気はすでに夕方のような冷え込みを見せている。ここは山間部、しかも本格的な冬間近だ。日が落ちるスピードは都会の比ではないだろう。
舗装された道の左右には、光を拒むように鬱蒼とした針葉樹の森が広がっている。
鹿か、猪か、あるいはもっと狂暴な野生動物か。この雰囲気なら、何が飛び出してきてもおかしくない。暗くなったこの道を一人で歩き帰るなんて、想像するだけで鳥肌が立つ。
心細さに背中を押されるようにして坂を登りきると、突如として目の前に石造りの立派な階段が現れた。
そしてその頭上、木々の隙間から、圧倒的な質量を持った建造物がその姿を覗かせていた。
「…嘘やろ。曾祖父さん、大金持ちやったんか?」
さっきまでの疲労が霧散し、俺の脳裏を俗物的な皮算用が駆け巡る。
弾む息もそのままに、俺は石段を勢いよく駆け上がった。
「おお…」
間近で見上げるその邸宅は、まさに「田舎の豪邸」という言葉が相応しい佇まいだった。
炭化して黒光りする焼き杉の塀が広大な敷地を取り囲み、重厚な門扉の奥には、母屋のほかに巨大な白い蔵のような建物がいくつか並んでいる。
門に近づき、手をかける。鍵はかかっていない。
ゆっくりと押すと、ギギィ…と、長い沈黙を破るような金属の擦れる音が、周囲の静まり返った森に響き渡った。
三十年間近く放置されていた、とトウジさんは言っていた。それにしては、敷地内が綺麗すぎる。落ち葉こそまばらに散っているが、生い茂る雑草や荒れ果てた気配が感じられない。誰かが定期的に掃除をしているのだろうか。
母屋の前には、黒ずんだ太い梁に支えられた長い縁側が伸びている。窓には、波打つように視界を歪ませる古い手吹きガラスが嵌め込まれていた。
屋根の一部や雨樋など、ところどころに不自然に新しい部材が使われている。これが役場で代行したという「補修」の跡なのだろう。
だが、周囲を囲む木々が高すぎるせいで、昼の十二時過ぎだというのに、敷地全体が妙に薄暗い。
門から玄関口にかけて、丸い飛び石が等間隔に並んでいる。それがまるで、獲物を奥へといざなう獣の口腔のようにも見えた。
(まあ、ただちょっと薄暗いだけや。お化けを怖がるような歳でもないやろ)
子供じみた恐怖を振り払うように自分に言い聞かせ、俺は飛び石を踏んで玄関へと進んだ。ポケットから、トウジさんに渡された真鍮製の重苦しい鍵を取り出し、古めかしい鍵穴に差し込み、回す。
ガチャン。
驚くほど滑らかに、あっけなく鍵は回った。手入れが行き届いている証拠だ。
ゆっくりと引き戸を引くと、隙間から冷え切った空気と共に、ツンと鼻を突く古い埃とカビの匂いが漂い出た。
「お邪魔します…」
誰もいないと分かっているのに、あえて声を出してしまう。返事がないことを確認してホッとする自分自身に、ホラー映画の観すぎか、と心の中で苦笑した。
一歩足を踏み入れると、土間の奥は完全な闇だった。
スマホのフラッシュライトを点灯させ、周囲を照らす。玄関脇の壁に古い木製のトグルスイッチを見つけ、指先でパチンと弾いてみた。しかし、天井の電球が灯ることはなかった。やはり電気は止められているらしい。
「まあ、ちょっと中を確認するだけやし、スマホの光で十分やろ」
俺はそのまま探索を続行することにした。
玄関土間には、うっすらと埃が積もっている以外は不審な点は見当たらない。
靴を脱ぎ、板張りの廊下に上がる。
襖で区切られた室内は、典型的な「田の字造り」だった。窓から遠い中心部の部屋には外の光が一切届かず、スマホの白いLEDの光だけが、暗闇の中に眠る古い家具を不気味に浮かび上がらせる。
「しかし…広いな…」
今は襖で細かく仕切られているが、これらをすべて取り払えば、優に六十畳は超える大空間になるはずだ。
部屋の隅々には、重厚なタンスや飾り棚がそのまま残されており、闇の中で巨大な獣のように鎮座している。
だが、スマホの光で畳の床をなぞっていた俺の視線が、ある違和感に留まった。
(…あれ?)
長年放置されていた部屋だ。畳は全体的に黄色く日焼けしているはずなのに、一箇所だけ、あからさまに青畳に近い、日焼けしていない四角い跡が残っていた。
その大きさは、大型の箪笥か何かを置いていた跡のようだった。
(生前、曾祖父さんが家具を移動させたんか?…いや、それにしては日焼けの差が新しすぎる気がする。意図的に、最近になって何かが撤去されたとか…)
トウジさんたちが「応急補修」のために出入りしていたのだから、その際に不要なものを片付けただけかもしれない。そう自分を納得させながら、俺はさらに奥の部屋へと進んだ。
たどり着いた最奥の部屋。その北側の壁際に、巨大な仏壇が鎮座していた。
黒漆の剥げかけた、年代物の金仏壇だ。
引き出しを開けると、煤けた線香立てや、真鍮製の仏具がそのまま残されている。
そして仏壇の中央には、戒名が刻まれた黒い位牌が、整然と並べられていた。
他人の家の仏壇を物色するのは、日本人の本能として激しい躊躇を覚える。だが、いずれは俺の所有物になる家だ。誰がここに祀られているのかくらいは、確かめておくべきだろう。
そう思い、俺は置かれていた、黒い位牌に手を伸ばし、持ち上げた、その瞬間だった。
カタン。
乾いた感触と共に、位牌が嵌まっていた台座の底板がずれた。
驚いてスマホの光を近づけると、隠し蓋のようになっていたその隙間から、古びた小さな冊子が滑り落ちてきた。
ノート、と呼ぶにはあまりにも年季が入りすぎている。それは、手製の和紙を糸で綴じた、黄ばんだ手記のようなものだった。
(なんや、これ…)
スマホのライトを近づけ、その文字を読む。
『梔子沈黙律』
その、刹那――
パァン
耳を劈くような、発砲音が俺の鼓膜を震わせた。




