第12話
悴む手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、村役場へと続く緩やかな坂道を注意深く見渡しながら歩いていた。
相変わらず、道端の生垣も、民家の庭木も、恐ろしいほどきれいに切り揃えられている。ゴミ一つ落ちていない村道を、俺のスニーカーの底が乾いた音を立てて踏みしめていく。
そんな村役場への道すがら、俺はあるものに目が止まった。道路の脇に、小さな石造りの祠がひっそりと佇んでいた。昨日もこの道を通ったはずだったが、濃い霧に視界を奪われていたせいか、全く気づかなかった。
田舎の旧道にはよくある、ただの野仏だろう。そう思って通り過ぎようとしたが、妙な磁力に引かれるように、俺は足を止めた。
一歩、祠に近づき、木格子の隙間から中を覗き込む。
祀られていたのは、小さな石のお地蔵様だった。
だが、その輪郭を網膜に捉えた瞬間、俺は毛が文字通り逆立つのを感じた。
(このお地蔵さん、顔が、ない、やんけ…)
見間違いかと思い、目を凝らす。
やはり無かった。
目も、鼻も、口も、何ひとつ造形されていない。というより、顔の表面が切断されているような…。
長い年月で風化したわけではない。祠の屋根は頑丈で、木格子には埃すら積もっていないほど手入れが行き届いている。つまり、雨風に晒されて削れたのではない。
明らかに人為的に削ぎ落とされているか、あるいは、最初から《《このように》》創られたのか。
――いや、目を凝らすと、それだけではなかった。
本来鼻があるであろう場所に、ぽつりと小さな『丸い穴』が穿たれている。工具で丁寧に開けられたような、歪みのない完璧な真円の空洞。それが、のっぺらぼうの顔でぽっかりと開いていた。何か呼吸口のようにも、すべてを吸い込もうとする貪欲な口にも思えるような穴。
そして、首元の純白の前掛けの裾から続く石の胴体は、下腹部だけが球状に、不自然なほど大きくせり出していた。
きつく巻かれた純白の布が、せり出した石の丸みに引っ張られ、はち切れんばかりにピンと張り詰めている。
(どっかで見たな…孕み地蔵…妊婦さんを弔う為やったか、安産祈願やったか…)
いずれにせよ、のっぺらぼうの顔と、その穴が組み合わさり、言いようのない生理的な嫌悪感を呼び起こした。
ぞっとするような寒気を覚えながらも、ライターとしての業が俺の体を動かした。ポケットからスマホを取り出し、画面越しに地蔵へレンズを向ける。
カシャリ、と乾いたシャッター音が静寂を切り裂いた。
「『地』は大地、『蔵』は蓄える、包むを意味する。大地がすべての命を育むように、広い心で人々を包み込み、苦しみや願いを救い取ってくれる仏様」
突如、背後から響いた静かな声に、俺はビクッと肩を跳ねさせて振り返った。
いつの間に近づいていたのか、そこには作業着姿の男性が立っていた。
小島シオン。
村民特有の左右対称の端正な顔立ちだが、その目元にはどこか、村の他の人間にはない色濃い疲労と、陰鬱な影がへばりついている。
「おはようございます…小島さん」
「タメ口でええし、シオンでええで」
シオンは表情を崩さずにそう言った。淡々とした口調だが、やはりその関西訛りは心地が良い。
「あ、ああ、シオン。…あの、これ、何?」
俺は祠の中ののっぺらぼうを目線で差した。
「お地蔵さんや」
「いや、そうやなくて…」
「冗談や。おちょぼ様言うねん。意味はよう知らんけど、この村ではそれがスタンダードや」
シオンは自嘲気味に肩をすくめた。
「おちょぼ様…」
俺はその聞き覚えのない言葉を反芻する。
その間、シオンは俺の顔をじっと見つめていた。その瞳は、何かを諦めてしまったような、あるいはこの状況に対する居心地の悪さを隠そうともしない、奇妙な熱を帯びていた。
シオンは口元だけで無理に作った歪な笑顔を浮かべ、声を潜めた。
「変やろ、この村」
「…」
その問いに、俺はすぐに答えることができなかった。
長屋での暮らしは驚くほど快適で、環境も申し分ない。トウジさんも村人たちも、よそ者の俺に信じられないほど親切だ。
だが、俺の本能はその完璧に整えられた優しさの裏側の、得体のしれない何かの影を確かに感じ取っている。
しかし、目の前にいるシオンの真意がわからない。
安易に同意するのも、否定するのも、この状況では良くないだろう。
『おーい、シオン!早く早く!』
遠くの畑の向こうから、作業着を着た女性の鋭い声が響いた。
シオンはそちらへ視線を送り、小さくため息をついた。
「ああ、仕事の途中やねん。すまんな、また」
そう言い残すと、彼は軽い足取りで坂道を走って去っていった。その背中を見送りながら、俺はもう一度、スマホのカメラで地蔵の姿を写真に収め、村役場へと急いだ。
◇
「どうですか、この村での暮らしは。といっても、まだ数日ですが」
村役場の受付カウンター。不自然なほど静まり返った奇妙な空気は、今日も絶賛継続中だった。
キーボードを叩く規則的な音と、紙が擦れる音だけが響く空間で、トウジさんは、相変わらず柔らかな笑みを浮かべて俺を迎えた。
「まあ、ネットが入らへん以外は、とても快適ですね。部屋も綺麗ですし」
「そうですか。それは良かった。何か不都合があれば、何でも言ってくださいね」
「あの…」
俺は少し声を落とし、本題を切り出した。
「曾祖父さんの土地ですが、今日あたり、ちょっと見てみたくて。場所、教えてもらえますか」
「当然、ケイさんにはその権利があります」
トウジさんは深く頷いた。
「少々お待ちください」
そう言うと、彼は音もなくカウンターの奥へと消えていった。
数分後、トウジさんが手元にいくつかの物品を携えて戻ってきた。
カウンターの上に置かれたのは、地図と、ずっしりと重い真鍮製の古い鍵だった。
「村の端っこですから、少し歩きますよ。外観は初日にお伝えさせていただいた通り、役場で最低限の修繕を入れていますが、中の家財道具などは当時のままですので」
「わかりました。とりあえず、行ってみます。ありがとうございます」
「ええ、お気をつけて。山道ですから、足元には十分注意してくださいね」
トウジさんの穏やかで瞬きのない瞳が、俺の顔をじっと見つめていた。
手渡された重い鍵をポケットにねじ込み、折りたたまれた地図を見ながら、俺は村役場のガラス扉を押し開けた。
外の冷たい空気が、少しだけ俺の強張った頭を冷ましてくれたような気がした。




