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還る血の仔ら  作者: 邑沢 迅
3日目

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第11話

 寒さで目が覚めた。


 ゆっくりと重い瞼を開けると、昨日と全く同じ、黒光りする見事な梁の天井が視界に入った。枕元に置いてあったスマホを手探りで掴み取り、画面を点灯させる。


 『11月30日 08:42 圏外』


 当然といえば当然だが、やはり電波は死んだままだ。アンテナのアイコンには無情な×印がついたままで、外界からの通知は一つも届いていない。都会の喧騒から完全に切り離された絶対的な静寂の中で、俺はのっそりと布団から這い出した。


 急いで一階のリビングへ降り、すぐさま備え付けのエアコンの電源を入れる。最新式のエアコンが低い駆動音を立てて温かい風を吹き出し始めると、寒さで強張っていた体の筋肉がゆっくりと緩んでいくのを感じた。


 ローテーブルの上に出しっぱなしのノートPCを開きながら、昨日カガリさんたちが持ってきてくれた惣菜の残りを朝食代わりにつまむことにした。

 重箱の中できれいに小分けにされた大根の煮物やほうれん草のおひたしは、コンビニ弁当ばかりの自炊では絶対にとれないほど野菜がたっぷりで、栄養価的にも正直かなり助かる。出汁がしっかりと染み込んだ冷たい大根を口に運ぶと、素朴で優しい味がじんわりと空っぽの胃袋に広がっていった。所謂、田舎の温かい家庭料理の味。


(…そういや、実家にも、あんまり帰ってないなぁ)


 その手作りの惣菜たちをつまみながら、ふと、神戸の実家にいる母親の顔を思い出した。

 ライターとして独立してからは、毎日二束三文の原稿の締め切りに追われるばかりで、実家に顔を出す余裕すらなかった。「あんた、ちゃんとご飯食べとんの」というお決まりの小言すら、今となっては少し懐かしい。


 そんな感傷的な思考が頭の片隅をよぎるが、ライターとしての悲しい性か、俺の手は箸を置いて自然とキーボードを叩き始めていた。


『――限界集落での生活は、不便さ以上に、圧倒的な精神的平穏をもたらしてくれる。情報過多な現代において、強制的にオフラインになれるこの環境は、都会で消耗しきった人間にとってある種の贅沢なのかもしれない』


 書きかけのルポ記事のファイルに、そんな一文を打ち込む。暖気の行き渡った一階のリビングの座卓で作業をしていると、恐ろしいほど文章の構成に没頭できた。


 とにかく、雑音がないのだ。隣人のドアを閉める生活音も、遠くを走るトラックの走行音も、無駄なネットニュースのポップアップ通知も一切ない。

 もし、このままここに住めるのであれば、それはそれで悪くないのかもしれない。タダで家と土地が手に入り、都会での文字通りの『すり減るような生活』から抜け出せるのなら――。


 そう思った瞬間だった。


 昨日の出来事が、唐突にフラッシュバックして俺の脳髄を小突いた。


 空木うつぎ神社の、削り取られたレリーフ。トウジさんから始まり、まるで金型から抜いたように完全に左右対称の顔をした村人たち。言葉を持たないスミレさんの、凪いだ瞳と少し尖った耳。


 そして――昨夜、カエデが俺の全身を舐め回すように見つめてきた、あのねっとりとした視線。


(あかん、ケツが気持ち悪なってきた)


 背筋ではなく、もっと下の、生物としての本能的な部分から這い上がってくるような生理的な嫌悪感。

 ブルッと身震いした俺は、キーボードを叩く手を止めた。


 立ち上がり、完全に空になった重箱を立ち上がって流し台に置き、タバコとライター、そして携帯灰皿をポケットに突っ込んで長屋の外へと出る。

 ガラリと引き戸を開けた瞬間、外の空気はエアコンで温まった体を容赦なく殴りつけるように冷え切っており、露出した顔の皮膚が痛いぐらいだ。


 だが、俺にとって冬特有のこの過酷なルーティーンは、数少ない『強制的に思考を整理する時間』でもあった。

 肺が凍りそうな冷風の中でタバコに火をつける。深く吸い込み、ふぅ、と紫煙を吐き出すと、昨日とは打って変わって、見上げれば空は美しく晴れ渡っており、冬晴れの青さがどこまでも高く広がっていた。

 霧がないだけで、これほどまでに村の景色が違って見えるのかと驚くほどだ。とても気持ちが良い。


(今日は、トウジさんに曾祖父さんの土地の話を聞きに行こかな)


 昨日役場で見せてもらったのは、土地の航空写真と古い図面だけだ。

 自分が相続するかもしれないその広大な土地と廃屋を、できれば自分の目で直接確かめておきたい。それが本当に『資産』になるのか、それとも莫大な管理費を吸い取るだけの『負債』になるのか。


(ルポの絶好のネタにもなるしな…って、やっぱあかん、寒いわ)


 タバコを半分ほど吸ったところで、あまりの冷気に身体がガタガタと震えだし、俺は急いで吸い殻を携帯灰皿に押し込んで長屋へと逃げ戻った。


 手早く備え付けのスポンジで重箱を洗い、ひっくり返して乾燥台に置く。

 スマホ、タバコ一式、長屋の鍵、そして一応の財布。

 玄関の下駄箱の上に置いてあった車の鍵に手を伸ばしかけて――俺はその手を止めた。


(車の鍵は…狭い村や、いらんやろ)


 車で移動してしまえば一瞬だが、歩くことで、また何か新たな気付きがあるかもしれない。


 考えるべきことは多すぎるが、部屋に引きこもって考えていても何も始まらない。まずは足を動かさなければ。


 俺は玄関の引き戸を開け、冷たい朝の空気の中へ、一歩踏み出した。


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