第十七話
母さんの部屋に入る。
朝に見たときと、何も変わっていないように見えた。
けれど、一つだけ見覚えのないものがあった。
腰ほどの高さの本棚。
その上に、菊の花が挿された花瓶と、一つのマグカップが置かれている。
「……これ」
俺が昔、父さんにプレゼントしたものだった。
マグカップの横に、白い封筒が二通置かれていた。
どちらにも、俺の名前が書かれている。
「なんだよ、これ……」
一通を手に取る。
見覚えのある、汚い字だった。
中には、一枚の便箋が入っていた。
『遺書
江戸 真理 殿
俺はお前に会わずに死ぬ。
血の繋がりはあるが、お前は他人だ。
だから何も残さない。
お前も、何もする必要はない。
死に目を見る必要もない。
母さんのこれからは、母さんが自分で決める。
お前は、どこかで生きてればそれでいい。
以上。
読んだら燃やせ。
江戸 勘十郎』
「ひでー手紙だ」
説明が足りない。
それでも、その不格好な文字に父さんが浮かんだ。
「何にもしないから、何にもするな。せいぜい生きろ。そういうことか?」
もう一度、手紙を見る。
「……今の俺には、言わないだろうな」
だって俺が。
母さんを。
世界を――。
考えるのをやめた。
もう一通の封筒を手に取る。
母さんの字だった。
『遺書
江戸 真理 殿
勘十郎さんが遺書を書くというので、私も書いてみました。
人生何があるか分かりませんからね。
勘十郎さんは、その三日前に、すい臓の癌で余命一年と告げられていました。
真理が東京に行きたいと言った日のこと、覚えていますか。
あのときの勘十郎さんの顔を、私は忘れられません。
安心したような。
少し、自慢げな顔でした。
その顔を見て、私も何も言わないと決めました。
家に勘十郎さんのものがなくなって、驚いたと思います。
自分のことは毎日思い出さなくていいから、私物は全部捨ててくれと言われました。
ひどい人です。
それでもちゃんと全部、捨てているはずです。
でも、真理がくれたマグカップだけは残しておきます。
勘十郎さん、きっと向こうでも毎日使うでしょうから。
この湯呑で入れてくれって真理のマグカップ持ってきてたんですよ。
そして飲み終わると、
「真理とは電話してるのか」
って、いつも聞いてきます。
まったく。
真理の前でも素直になればよかったのにね。
書きたいことがたくさんあって、困ってしまいます。
けれど、勘十郎さんのように少しだけ見栄を張って、あとはあなたを信じることにします。
最後に一つだけ。
あなたの名前のこと。
真理、この名前、小さいころは嫌がっていましたね。
「マリとも読めるから、女の子みたいだ」って。
実はその名前、真理の性別が分かる前に決めたものなのです。
男の子ならシンリ。
女の子ならマリ。
勘十郎さんが、そう決めました。
どうしてそんなに早く決めたのかと聞いたら、
「生まれてきてくれるなら、あとは本人がなんとかするさ」
って。
本当に、変な人。
でも、私は愛しています。
そして、あなたのことも。
私と勘十郎さんは、好きなように生きました。
だからあなたも、どうか自分を大切にして、好きなように生きてください。
愛しています。
江戸 知子』
読み終えても、しばらく顔を上げられなかった。
うつむいていると、父さんの手紙の裏に何か小さく書かれている。
本文よりもさらに潰れた字で、申し訳程度に付け足されている。
『湯呑ありがとう』
それから、本棚の上のマグカップを見る。
「それ、マグカップだよ……」
少し笑ってしまう。
父さんが俺に会わなかった理由。
俺が他人だったからだ。
血の繋がった、他人。
「……なんだよ」
手紙を握る手に、力が入った。
「なんだよ、それ……」
俺は何も知らなかった。
何も知らないくせに、全部分かったつもりになっていた。
父さんは俺に会いたくなかったんだって。
母さんだって、俺を恨んでるはずだって。
二人は、俺が死んだ方がいいと思うはずだって。
勝手に決めていた。
「母さん……ごめん」
声が震えた。
「二人のこと、勘違いしたまま死ぬとこだった」
死人には、口がない。
だから、生きている人間が勝手に、その人の気持ちを決めちゃいけない。
俺は危うく、父さんと母さんを、俺の死を望む親にするところだった。
「……ほんと、バカ息子だよ」
涙を拭う。
それでも、世界のことは何も解決していない。
俺が終読者であることも。
母さんが死んだことも。
今も世界中で誰かが苦しんでいることも。
何一つ、消えていない。
それでも。
「よーーし、分かった!」
立ち上がる。
「自分が嫌になっても、迷惑かけても、嫌われても!」
ぐーっと背伸びをする。
「それでも、もうちょっと好き勝手生きてみるよ!」
大きく息を吸った。
「間違ってたら、いつか叱りつけてくれ!」
返事なんてない。
当たり前だ。
でも、それでよかった。
「あー……あと、父さん」
本棚の上の湯呑を見る。
「こっちこそ、ありがと」
これが最後の反抗期だ。
死んでくれと言われたって、生きてやる。
「はあ、……眠い」
そのまま、倒れるように布団へ転がった。
二日近くまともに眠っていなかった身体は、すぐに限界を迎えた。
手には、二人の遺書を握ったまま。
そのまま、眠りについた。




