37. カレンの秘密
カルアが気づくと、顔に何か被せられていた。
麦わら帽子だ。
それが誰のものかということをのみこんだ瞬間に、がばと起き上がった。
そこはカルアたちの頭のなかにある〝白〟の部屋だった。そう、過去形。
燦々と光に満ちていたその空間が、いまや〝赤〟に染め変えられている。
周囲の至るところから炎が噴き出し、舞い狂うサラマンダーのように宙を行き交う。
光と熱が何もかもを灼き焦がそうとしている。
だが唯一、カルアのところには涼しい〝黒〟があった。光源に向かって、カルアを守るように立つ、赤髪の背中から伸びた影が。
「カレン!」
呼ぶと、片割れはちょっとだけ振り向いた。その顔にやはり表情はない。
「何だよ、これはよ!?」
「強力な……催眠術式です」
カレンは正面に顔を戻した。前に伸ばした両手の先に魔導円陣がひらき、そこからカルアたちの周囲をすっぽりおおう守護膜が広がっている。
「〝太陽〟の力が、無理矢理引き出されて……暴走、しかけています……!」
カルアは上空に浮かぶそれを呆然と見上げた。
――〝呪歌〟の大魔導円陣。
網膜にあとを残すほどぎらぎらした輝熱を帯び、ガス状の炎に取り巻かれているその姿は、墜落寸前の宇宙母船のようだ。
「カルア」と片割れが呼んだ。
カルアはあわててそばに寄る。
「ここを……頼みます」
「なっ!?」
「だいじょうぶ」
片割れは強引にカルアの手をつかみ、正面の魔導円陣に向けさせた。そして自分はどこかへ行こうとする。
「待てよ、カレン!」
カレンが守護膜の外にほんの少し出た途端、手足から黒いものが噴き出し、炎熱の圧力に吹かれてぼたぼたと足元に飛び散った。カルアはそれを見つめ、言葉を失ってしまう。
「……離してください」
カレンは振り向き、カルアの手を一瞥した。カレンの純白の服をぎゅっとつかみながら震えているその手を。
「〝カレン〟が……待っているのです」
そう言って大魔導円陣を見上げた。そのうしろ姿が無性に儚く見えて、カルアの眼は潤んだ。
「ば」っきゃろ、と言おうとして、のどが詰まる。
「おめえは、ここにいるだろうが!」
片割れは首を振った。
「〝わたし〟は、違います。わたしは、カレンの魂影……。記憶や思考をなぞるだけの、中身のないコピーに過ぎません」
そのあいだにも、手先が黒く溶けて地面に落ち、しみのように広がった。
「〝カレン〟は……その魂のコアは、〝太陽〟の力を護るため、誰も手が出せない場所に閉じこもっています。この身体が……わたしたちが共有するこの器が滅びない限り、カレンという存在は消えないのです」
さぁ、わかったのならこの手を離して。そう静かに言った声は、カレンの声以外のなにものでもなかった。カルアが生まれたときから聞いていた、ずっといっしょだった、その響きだ。
こいつが、カレンじゃないはずがない。
「意味……わかんねえこと言うな!」
カルアは叫ぶ。おめえはおめえだろうが、と。
泣いてしまう。
家出をしてから、やりたいようにやった。気の向くのに任せて。けれどずっとこころを占めていたのは、カレン、大事な片割れを取り戻すことだった。
カレンを護る。
そのためにカルアは――この自分は存在しているのだから。
「どこにも行くな……、――っ、いっしょに、いろよお!」
片割れの瞳の奥に一瞬、ある感覚が過ぎった。それは〝痛み〟だった。
「あなたは錯覚しているのです……。カレンがいなければ……ひとりではいけない、と……。あなたには、カレンしかいなかったから」
その言葉で、カルアのなかのあらゆる感情が沈黙した。
「何……言ってやがる」
「そうやって依存させ、都合よく利用してきたのは――」
ごあ、とすぐそばで火柱が噴き上がった。守護膜が辛くも押し返したが、ひりつくような熱がなかに入り込んできた。
ぽたり、と落ちたしずくが、細く長く水蒸気に変わっていった。
「ごめんね、カルア」
カルアは反射的に身構えていた腕をどけ、顔を上げた。カレンは背を向けていた。
「わたしは……自分のために、あなたを閉じ込めたのです。身体をひとりじめして、自分だけが、人生を送ってきた」
「……違う」
カルアは何も考えられず、ただ首を振るだけ。
「もう遅いけど――」
振り向いた。カレンの口元が一瞬、横に広がった。苦しい胸を抱えつつ、カルアを安心させようとした笑みだった。
「あなたは、あなたらしく……生きて」
片割れは駆け出した。昔からの、どんくさい走り方で。
「カレン……ッ!」
カルアは追った。守護膜から出ても、熱も炎もそう感じなかった。カレンの身から噴き出す黒い影が流れてきて、カルアに被さってきたから。
「こんなの許さねえぞ! ぶん殴ってやる……ッ。戻れ、カレン!」
(だいじょうぶ……)
耳にカレンの声が響く。
黒い影を掻き分け、無我夢中で進むうち、前がまったく見えなくなった。気づくと、まわりから光も炎も消えている。自分が動いている感覚もない。
無限か、あるいは虚無かとも思える暗闇のなか、不意にカルアは光を感じた。
(……あなたはもう、ひとりじゃありません)
頭上に落ちてきた。きらめく星のような、そっと寄り添うような、光が――
********************
ぼんやりした視界に、誰かの口元が見えた。
薄桃色の唇だ。はっとひらいたかと思うと、きゅっと切なげに結ばれた。
そのほんのり紅潮した顔が、不意に近づいてきて、こちらの左頬に、ちゅう、と潤ったやわらかい感触が押しつけられた。
なんだか落ち着く。眼を閉じる。
またひらく。頬の感触が離れていく。
まばたきを二回して。ピントがだんだん合ってきて。
陸の顔が見えた。
「おかえり、カルア」
朝露に咲いた花みたいに微笑んで、陸がくれた言葉。
その響きが、カルアをカルアだと思い出させた。
ここにいるのは〝自分〟だと。
ほかの誰でもないのだと。
「……っ」
しゃくりあげる寸前のように、カルアは息を吸った。止めようとしたのに、涙はあっけなくあふれた。けれど、陸も、横にいる梶原も、誰も気づかないようだった。
カルアは眼を覚ます前から泣いていたから。
頬を伝うしずくが少し増えただけだから。
崩壊していく大魔導円陣が、最後の輝きをやさしく投げかけていた。
********************
台所の窓ガラスが、陽の光でふくらんでいる。
新しい朝。今日も良い天気になりそうだ。
でも、鏡のなかには、曇り模様の浮かない顔がある。
陸はブレザーに袖を通し、姿見の前でネクタイを締めていたが、ふとその手を止めた。
絆創膏の目立つ頬を、指先で持ち上げる。応急テープを貼った鼻も、ひくつかせてみる。
ダメだ……。眼が沈んでしまう。
学校のみんなに、あわせる顔がない。
悩み抜いた末に、陸は顔じゅうに包帯を巻いて、ミイラになって登校した。
「陸ちゃぁーん! ……って誰やねん!?」
駆けつけツッコミをくれた絵李。クラスが違うけれど、いっしょに教室までついてきてもらった。
がらりと扉を開ける。
「……?」
間違えて、保健室に入ったかと思った。
ガーゼ、蒼あざ、絆創膏をこしらえた生徒たちがたくさんいた。お互いのボロ具合を見比べて談笑している。
何人かが陸に気づき、あっ、おっ、という感じで、けが人たちが振り返った。
負けた、と誰かが言って、さらにたくさんの笑い声が起こった。陸には何がなんだかわからない。
見ると、うしろの黒板に何か書かれている。
〝K‐1 グランプリ〟
初代No. 1重傷者として、陸は胴上げされた。クラスのほかの生徒たちも輪に加わった。
きっと誰ひとり、確かなことはわからないはずだけれど、いっしょに笑っていた。
新しい朝。
昨日と何かが違う、でもそんなに変わらない一日が、はじまった。




