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36. 魂影/呪歌



 勝負は決した。一目瞭然に。


 老シリウス――アネッドは、わずかに眼を細めただけで、敗北を受け入れた。


 首から下が石化し、ベッドもろとも壁に磔にされていなければ、そのまま寝入ってしまったかもしれない。それほどに安らかな気持ちがどこかにあった。


 割れた窓の外で雷鳴が轟く。稲光が差し、すっかり様変わりした寝室のなかを照らす。

 そこはある種の空間芸術インスタレーションと化していた。


 渦巻きやくぼみに変形した壁や床、銅色の光を帯びた三鎖魔導円陣、飛びかかる姿勢で凍りついた犬の石像。


 そして――古代ギリシアの女神像さながら、左腕のない女がひとり。


「さすがね、じいさん」


 アネッドは皮肉と受け取った。

「腕一本止まりで、何を」


 バロンは自らの血だまりの上で平静な顔をしている。


「あなたはこの空間で、なんでも思いどおりのことができるみたいね」


 別のところから声がし、バロンの背後からバロンが現れた。


 化粧を直し終えて出てきたといった風情のこの魔女は、腕をなくした己の写し身をちょっと眺め、気に入らなさそうに指でつついた。すると分身体は塵に還って消え失せた。


「あたしはせいぜい、現実にできることの八割といったところかしら」


 アネッドはくつくつと笑った。腹の底から込み上げるような本物の笑い。


 だんだん笑い声は大きくなった。咳が出ても構わず、ひいひい、のどを引きつらせたが、不意にそれは収まった。


「……殺せ」


 バロンはうなずかなかった。

「もう一度訊くけど、あなたはまだ生きているの?」


「肉体はすでにない。自らに捧げた……」


「自分自身を生贄に……なるほどね」


 バロンは石と化した絨毯の上をこつこつと歩いた。


物質マテリアルとしての自分の身体を、まるごと魔力に変換することで、あなたは全盛期並みの力を取り戻した……けど、肉体が滅びれば、魂も同じ運命をたどるはず」


 立ち止まる。


「いまここにいるあなたは、いったい何なのかしら?」


「かつて〝誰か〟だった……それだけの存在だ。いまのわしは、アネッドと呼ばれた男の面影……この〝世界〟にしわのように刻まれた残存情報、その集合体に過ぎん」


 バロンはうなずいた。得心したというように。


「スピリット・シャドウ――魔力によって〝世界〟に存在を許された、魂の抜け殻……」


 そうだ、とアネッドはしゃがれ声でうなずいた。


 バロンはひとり考えに没頭するような様子で手近の椅子にかけた。


魂影シャドウは本来、自分が何者だったかを忘れているもの。それを思い出したときには〝世界〟の果てへと消える運命さだめ……


 にも関わらず、じいさん、いまのあなたはシリウス卿そのものとして存在している。大したものね……ゾディアックの秘術とやらは」


 アネッドは片頬をゆがめた。

「貴様のほうが専門家のようだ」


「いいえ。その領域じゃ、あたしは無力」

 煙草に火をつけた。

「だから力を貸してほしい」


 アネッドは怪訝に眉を曲げた。

「何を言っている」


「あなただけじゃない。より多くの術師の力を借りたいの。……《天文台》とかね。あなたからも頼んでくれないかしら」


 するとそこで、アネッドの身をおおう石が剥がれ落ち、自由の身にされた。


「娘が、眼を覚まさない」

 バロンは窓の外に息を吐いた。

「身体はとっても元気なのに」


「どういうことだ」


「あたしの〝太陽〟は……ひとりじゃないの」

 バロンは言い、振り向いた。

「お願いよ。じいさん」


 アネッドの思考のなかで、氷が瞬く間に解けるように、疑問の答えが出た。


〝太陽〟をめぐる暗闘のさなか、現代最高の魔術師たるこの女が、なぜその無上たる力に訴えることをしなかったのか。


「そうか……バロン」


 アネッドは曇天そらを見た。

 雨は上がっている。


「貴様は、母親になったのだな」


 バロンは何も言わない。


「親の情、か……。わしはついぞ、それがわからなかった」


 ふっと紫煙とともに、バロンは笑みを洩らした。「お得意の皮肉かしら?」


「何……?」


 そのとき、窓の向こう、庭園の遠くから、男の声が飛んできた。


「――親父――っ!」


 それはこの場所に響くはずのない声だった。それでいて、アネッドの耳にいつからか居座り、年ごとに響きを変え、いまもずっと、奥のほうを揺らし続ける、その声だった。


「ブルーノ……ッ」


 窓から身を乗り出し、アネッドは見た。息子がこの館を目指してやってくるのを。その前を導くように黒猫が駆けている。


「まさか……ありえん! あやつの意識には鍵をかけたはず……っ」


「あたしが解いた」


 アネッドは言葉をなくした。対しバロンはまずそうに一服し、煙と微苦笑を漂わせた。


「手間ひまかけたのよ。あなたがたと同じくらい、ね」


 アネッドは気づいた。


「煙草の煙を媒介に、ブルーノの意識に干渉したのか……」


 宙を仰ぐような心地だった。十八番でひっくり返されるとは思いもしなかったのだ。


「親父、そこにいるんだろ!?」

 ブルーノの声が近づく。

「産まれたんだ! あんたの孫だ! 名前をつけてくれ……俺に、くれたように……っ」


 アネッドはその言葉を受け止め、うつむいた。


「バロンよ、いますぐわしを殺せ」


 女魔術師は、ない眼を剥いたかのようだった。煙草を持つ手がひくりと止まる。


「さもなくば……わしの仕掛けた術は止まらぬ」

 アネッドは半ば懇願していた。

「貴様の〝太陽〟は……沈む……!」



 ********************



 まるでイルミネーションだ。


 赤い魔素がそこらじゅうにあふれ、穴のあいた鉄骨の高天井へとのぼっていく。


 それが醜怪な魔獣の骸から発生したものでなければ、わりにロマンチックな光景とも思えたかもしれない。


 その景色の真ん中で〝彼女〟がどう感じているかはわからない。

 光の粒子の行く先をぼうっと見上げている、その横顔が訳もなくきれいで、陸は見惚れてしまった。


 不意に彼女のまぶたが、ふっと落ちそうになる。同時に、身体がふらりと支えを失った。


「だいじょうぶ……っ?」


 陸があわてて抱き止めると、彼女はとろんとした眼で見返し、にへと笑った。そして何も言わずに陸の首に腕をまわし、ぎゅうっとハグをした。頬を、すり、るり、とやさしくこすりつけてくる。陸はそのままいっしょに倒れ込んでしまいたいと思った。


 魔獣の身体が蚕食されるように失われていくなか、その肉片のあちこちに魔導円陣が浮かび上がった。

 陣の光が消えるとともに、そこから人間が現れ出でた。


 飲み込まれたエレメンティアの少年少女たちだ。倒れているが、みな息をしている。うーんとうめいて起きようとする者もいる。無事なようだ。


「……ごめんね」


 陸は彼女を抱く手をゆるめた。自分には受け止める資格がないと思った。


「ぼく……君のこと、ちゃんと――」


 そのとき、突如としてまばゆい光がいっぱいに降り注いだ。

 まるで昼間になったかのよう。


 陸が振り向くと、光量はさらに増した。視界が白一色に飲み込まれる。


 腕で光を遮り耐えるうち、やっと光の奔流が落ち着いた。しかし眼が開けられるようになっても、陸の頭のなかはまだ真っ白だった。


 その光景に理解が追いつかなかった。


 巨大な、あまりに巨大な魔導円陣――


 赤熱と白輝にまばたく荘厳な図像サインが、遥か頭上からこちらを見下ろしている。


(この陣のかたち……バロン様の――、っ!?)


 陸は、陣の中心に人影が浮かんでいることに気づいた。腕に抱えていた重みと温もりが消えていることにも、いまさらはっとした。


 彼女だ。


 おそらく、そのはずだ。確信が持てない。ドレッド加工がゆるやかにほぐれてストレートになった髪に、緋色の魔素がまとわりついている。


 そしてその唇の先にちいさな魔導円陣をひらいている。そこから〝見える〟旋律としてルーンの文呪が生成され、リボンのように螺旋を描いて彼女の身体を包み込んでいく。


(リン……ちゃん)


 陸の耳に、かすれた声が響いた。――カレンちゃん?


(お願い……)


 大魔導円陣が、朱を濃くし、力を放った。

 工場のなかいっぱいに、紅に透き通った波動が押し寄せる。


 薄布を何枚も重ね合わせたような波が、魔獣の残骸や、倒れているエレメンティアたちを撫でた。

 途端にその身の内側から魔素が噴き出し、緋色に染まった。血が噴くような光景にも見えた。


 陸は避けようとしたが、波動が足にかかってしまい、倒れ込む。


 左足のすね下から、陸の体内魔素がひきずり出され、やはり赤くなって消滅した。


(魔力が喰われる……。こんなのまともにくらったら……っ)


 脳にある魔導制御系の核が破壊される。力を失うばかりか、生命にも関わるかもしれない。エレメンティアの身体は、魔素を必須のものとしてできているのだから。


 陸は全身の汗とのどの渇きを感じながら、まぶしさに眼をすがめて頭上を見上げた。


 大魔導円陣はぎらぎらと勢力を増す。その中心を陸は見つめる。


 薔薇の花弁のような波に包まれた彼女の姿は、とほうもなく遠く、手を伸ばしても届かないように見えた。


 真紅の波動が、ふたたび襲いかかってきた。



 ◆



 光、光、光だ。これぞ待ち望んでいた光景だ。


 半壊した工場の建屋が、いまや溶鉱炉のように目映く燃え滾っている。


「オッホ、ホッ!」


 お面の紳士JBは奇妙な歓声を上げ、空飛ぶステッキの上で身を震わせた。


「――すばらしいブリィリアント!!」


 現場上空の大気は乱れ、紳士の飛行を不安定なものにしている。それは夜風のせいだけではないようだった。赤い力の余波が、エレメンティアに本能的な怯えを起こさせる圧力となって、付近一帯の空気を震わせている。


 JBは包帯に巻かれた左腕をかばいながら、ふらふらと限界まで近づいた。

 黄金の林檎の火をすくうブラッドベリの宇宙船に乗り込んだような、特等席の眺めだ。


「地球由来の魔素を殺す〝太陽〟の波……美しい……! まるでバレリーナのスカートではないか……!」


 工場の周辺を取り巻くようにして、さめざめと蒼い光を放つ共鳴杖コンロッドを手にした魔術師たちが配置されている。それは道化が試みたような素人のお遊戯ではない。プロの仕事だ。


 人馬夜卿ロード・サジタリウスより遣わされた、選りすぐりの儀式魔術専門家たちが、老シリウスの〝魔界〟の効果を増幅させている。


「さぁ見せろ! バロンの娘よ!」

 JBは片腕を広げた。

「キミは果たして〝太陽〟の器に足る存在か……」


 ム、と紳士は興奮のあまりにズレたお面をなおした。「あれは」


 紅の波のあいだから、巨大な灰色の腕がもがくように現れた。跳躍する人影も見える。


 ――くろがねの乙女アイアンメイデン……!



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