33. 星、見上げて
汚泥の混じる記憶の水底で、助けを請う声が陸を我に返らせた。
急いで崖のふちに駆け寄り、下をのぞきこむ。そこには傷だらけで岩壁にしがみつき、いまにも落ちそうになっている従姉妹の姿があった。
「なぜとどめを刺さん!」
従姉妹を引っ張り上げた陸に、着物の女が詰め寄った。いつも陸を猫可愛がりしていた祖母、鉄乙女家の当主はそのとき、鬼女そのものの憤怒を剥き出しにしていた。
「跡目争いに情けは無用ぞ」
いやだ。陸は首を振った。
こんなこと、もういやだ。
まとも、じゃない。ふつう、じゃない。
そんなのは、もういやなのだ。
「陸、おみゃあ、どこで鈍ったか」
カレンちゃん。バロン様。
彼女たちならどうするかを考える。あの人たちのようになりたいと陸は願う。
「ならば、産め」と祖母は言った。「継ぐ子を、おみゃあの代わりを」
雪よりも白く煌びやかな頬に、すうと赤黒い傷口めいた微笑が広がった。
祖母の艶やかな美貌は、齢百を超えるとはとうてい思えない。人呼んで妖人ーーその細長い手が、陸の下腹部に伸びた。
生爪がねぶるように食い込んでくる。そのつめたい痛みに、陸は腑の裏側まで震えた。
「殺めなければ、孕め。孕めなければ、殺める。それが鉄乙女の獄道ぞ……!」
ばかげている。いまなら陸にもそう思える。
けれどバロンのもとを去り、本家の庇護のもとに戻ったばかりの当時はそう考えることができなかった。
毎週末を京都の屋敷で過ごすなか、これからここで生きていくしかないのだという実感が日増しに積もり、閉塞的で血なまぐさい家の空気にどこか蝕まれていくようだった。
きっと、母もそうだったのだろう。
「何が問題なんだ?」
古都は、祖母との話し合いの末、ある結論に至ったようだった。しかしそれは陸には受け入れがたかった。
「殺しはわたしが引き受ける。おまえの手は汚させない」
でも、と陸は必死に反ばくした。
「母様にそんなことっ……してほしくありません」
「おまえとお父さんをまもるためだ」
古都は陸の眼をまっすぐ見た。そうすると陸は何も言えなくなってしまう。
「おまえは自由にしていいんだ、陸」
自分だけ? 母を身代わりにして?
そんなの、まとも、じゃない。ふつう、じゃない。
でも、このままじゃ――
◆
「えっ、うそ……」
「あれって陸、くん、だよね?」
セーラー服を着て登校した最初の日、みんな、陸を遠巻きにした。
「太刀花ってやっぱり……」
にやけ話にひそひそ話。当惑と好奇の視線が廊下にあふれた。
「おまえ……」
竜三だけが声をかけてきた。どうしたんだと問う顔をしていたが、陸は何も話さなかった。
「気持ち悪っ」
女子のグループから声が上がった。
「更衣室とかいっしょかな?」
「うえ、絶対嫌!」
「先生に言おーっ」
職員室に陸を呼んだ担任は、話すあいだずっと、ほかの先生の聞き耳を気にしていた。
「うちはー……フツウの学校だからな。配慮するにも限界があるんだよ。な? だから……なんていうかなー、せめてどっちかにしてもらいたいというか」
「どっちだっていいじゃないですか」
陸のかすれ声に感情はなかった。
「ぼくは、ぼくなんだから」
担任は聞き洩らしたようだった。
「悪い。何て言ったんだ?」
「……先生」
うっすらと笑みが込み上げた。
「ぼく、〝どっち〟だと思います?」
それから少しして、学校が休みの日に、陸は担任から連絡を受けた。悩み相談、ついでに気晴らししようじゃないか。そう誘われるままに出かけた。男のいいなりの恰好で。
わかっている。
まとも、じゃない。ふつう、じゃない。
でも、もういいのだ。そう思った。
鉄乙女の血をうらむ気持ちは、生涯消えることはないだろう。
しかしそれが、いまだに純粋な憎悪に成り果てないのは、あの日、本家が陸を止めてくれた借りがあるからだ。
あの日、ホテル街へ向かっていた陸と教師の前に、どこからともなく女たちの集団が現れた。
霊柩車を思わせる、漆黒の留袖と金の帯に身を包んだ女たちは、恫喝も暴力も使わず、ただまなざしを刺すだけで男を腰砕けにした。
陸は立ち尽くしていた。
もう何も感じたくなかった。
◆
「ばかな子」
暗落――したはずの意識の底で、陸はやさしい声を聞いた。
振り向くと、師がいた。
そうだ。あの日の夜、バロンは陸のもとに来てくれたのだ。
ひらいた障子から、月明かりとあのひとの長い影が差し込んでいた。
涙がひとしずく、陸の眼からこぼれた。
「壊してやろうと……思ったんです」
バロンの腕のなかで、そう声をしぼりだした。
「そんなに……ぼくのなかの〝女〟が大事だっていうなら、いっそ……」
結果的に、陸は本家を離れることができた。当主は陸に失望したのだ。古都がうしろ暗い稼業に手を染める必要もなくなった。
けれど、その代償は大きかった。
鉄乙女家に一矢報いるつもりが、傷つけたのはたいせつなひとたち、そして自分自身だった。
「いい?」
バロンは陸の肩をつかんで、しゃんと立たせた。
「あんたに必要なのは、ひとつのことだけよ。ただひとつ、こころに決めて、それを守り通しなさい。そうすれば、もう道を外れることはないわ」
ひとつ……それって、何ですか。
見つけなさい。よぉく眼をひらいて……
(リンちゃん。【思い……出して】ください。あなたが、あなたであること……)
(どんなあなたでも……【 】にとって、大切な――)
☆
闇が晴れ、星空が見えた。
と思った直後、壁に顔をぶつけた。
いや、殴られたのだ。
大きな硬い拳が陸の鼻を折り、身体を数メートル吹っ飛ばした。
砂浜にどさりと大の字に伸び、ひんやりとした砂の感触をかみしめた。
起き上がると、警戒と惑いの混じった様子のイスマイルと視線が合い、陸は苦笑した。
「おかげで……眼が醒めました」
垂れる血を舐め、鼻をぎゅっとつまんでまっすぐになおした。
イスマイルのひげ面からニッと白い歯がのぞいた。
陸はすぐに自分のすべきことに動いた。
水口をリンチして笑っていた連中は、ひとり残らず地べたに転がってうめいてもらった。
一瞬の出来事に、絵李は泣き腫らした眼でぽかんと口を開けていた。
「ごめん」
陸は絵李の顔を見れなかった。
「ぼくに関わったせいで、こんなことに……」
ううんと彼女は首を振り、眼元を拭った。
「うちら、友だちやん。みずくさいで」
絵李の微笑みを受け止め、陸はようやく理解した。それはきっと、わかりきっていたことだった。なのに陸は信じきれなかった。
胸が、じくじくとうずいた。
「おぃい!」
《新暦》の若者が、いきなり叫んだ。
「てめ、チョーシのんなよ! 学校の連中ミナゴロシにしてやっからな。おれらの仲間がどんだけいると思っ」
演説していた若者は、背後から飛び蹴りをもろに受け、ぎゃっと倒れた。
陸も絵李も眼を丸くした。
「滝内くん!?」
彼ひとりではない。同級生たちが何人も突撃してきて、エレメンティアの若者たちとぶつかりあいをはじめた。
「おれが呼んだんだぜ……」
水口は痛そうに立ち上がり、へへと笑みを洩らした。
「ダメだよっ」と陸は言った。「みんなを巻き込みたくない!」
「陸」
滝内は親指を立てた。
「今度はおれたちが……おまえに付き合う番だ!」
男の子たちは雄叫びを上げて突っ込んでいく。
イスマイルが愉快げにそのあとに続いた。
「ボーイズ、助太刀するぜェ!!」
陸は声もなく、ただ眼をしばたたくだけだった。生まれてはじめての感覚に、圧倒されていた。
何だろう、このこころ強さは。
「ヘイ」
ダニエラが息を切らしてやってきた。
「あんたは行きな。お嬢さんのとこに」
ダニエラが指を向けた先に、付き人チームの梶原がいた。
彼女が眼鏡をはずすと、意外なほどきりりとした眼差しが現れた。
その黒い虹彩のなかに、魔眼の印が浮かんだ。




