32. 沈む
カルアは両開きのドアを乱暴に押しひらいた。
制止の声を振り切り、プライベートジェット専用ラウンジを出ていく。
青いガラスの上等なドアが壊れそうな音を立て、受付嬢がひっと悲鳴をもらすのも意に介さなかった。
「ねえ、落ち着きなよ」
ダニエラが追いついてきた。
「るせえ!」
カルアは頭の毛をむしり取り、投げつけた。変装用の黒髪のウィッグだ。それは意図せずカジワラの顔面にぶつかった。
「あいつ、ぶん殴らねえと気が済まねえ……!」
「やめとけ」
イスマイルがゆっくりとやってきて言った。
「その身体は、おまえさんだけのものじゃないはずだ」
ダニエラとカジワラは何のことかわからないようだった。でもカルアには身に染みてよくわかる。返す言葉をなくし、ぎりと奥歯をかみしめた。
そこへ電話がかかってきた。
相手も確かめずに応答する。
「カルアちゃん!」
その呼び方とイントネーションで、絵李だ、とすぐにわかった。
「陸ちゃん、そっちおる!? おったら替わって!」
カルアはとまどい、携帯端末を少し耳から離した。電話の向こうの声は震えていた。
「〝アレ〟……うちらじゃないんよ。知らんうちにチャットに書かれてて」
「ヘイ」とカルアは呼びかけた。「オレちゃんもあいつのこと捜してんだ。そっちで見っけたら教えろ」
電話を切り、付き人たちに背を向ける。
お嬢さん、とダニエラが追いすがった。
「行かせてくれよ!」
自分でもびっくりするくらい、必死な声が出た。
「決めたんだ、自分で。……カレンがどう思うかは、知らねえ」
駆け出そうとしたが、カルアは止まった。
「わかった!」とイスマイルの声がしたから。「了解だ」
どうせなら速達で送ってやる。イスマイルはそう言って白い歯を見せ、イグニッションキーを指でくるんとまわした。
数分後、カルアはスポーツクルーザーに乗り、夕焼けのオレンジに染まった波の上を突っ切っていた。
ヘリを除けば、これがどんな移動手段より速いだろう。
しかし、気を揉んだ。
サロンスペースのソファにも座らず、船室からデッキに何度も出て、岸までの距離を確かめた。
そんなときに電話がかかってきたから、とっさに出た。知らない番号だったが、陸が見つかったのかも、と。
「俺だ」
「誰だよ」
「友人A」とそいつはなげやりに言い、急いて続けた。「陸の居場所……わかるか?」
「こっちが聞きてえ」
「あいつは、たぶん、街には、いない」
息が上がっている。華山竜三とかいったか。この男も捜しまわっているのだ。
「おい」とカルアは操舵席に向かって声を張り上げた。「もっとあの辺に向かえ」左方向を指差す。
神戸じゃないのか、とイスマイルが訊き返してきたが、いいから行けと言い張った。
「頼む」
静かな熱のこもった声が聞こえ、カルアは電話に耳を戻した。竜三はつばを飲み込むのさえもどかしそうに言葉を継いだ。
「陸を、助けてほしい」
冗談じゃない。ぶん殴るだけだ。
「あいつは、厄介な家の生まれでな。その呪縛のなかで、ずっともがいてきた」
過ぎた話はどうでもいい。知りたいのはいま、あいつがどこにいるかだ。
「陸は弱い人間じゃない。だけどそのあいつでさえ……一度だけ、馬鹿をしやがった」
一度どころじゃないはずだ。カルアが出会ってからのこの短いあいだでさえ、あいつは何度も馬鹿っぽさを晒している。
人より遠くを見通せて、込み入った考え方をしているようなのは、ほんの一面に過ぎない――はずだ。
あいつの成分のど真んなかを占めているのは、もっとあるがままで、拍子抜けするくらい単純なものなのだ――という気がする。
その直感に従った。
◆
「――リクーッ!」
昨日訪れた海浜公園を、カルアは息せき切って駆けた。
浜辺の道は閑散としている。波風に木々がざわざわと揺らめき、伸びた物影が何か捕らえようとする手のようにゆらゆらとうごめく。
鳴く鳥もいない水平線の色彩は、消えかけの炎のようだ。
昼と夜のあわい。そのぼやけた景色のなかに、にじんで消えてしまいそうな人影を見つけ、カルアは足を止めた。
「リク……!」
間違いない。磯の水上にたたずんでいる。
「おい、てめえ!」
ブーツで砂浜をざくざくと抜けて、砂利がちで岩の多い磯にごつごつと近づいたところで、カルアは一瞬躊躇した。
が、すぐに意を決して裸足になり、暗い水の上に踏み込んだ。
「リ……おい、聞こえねえのか!」
沈みそうになりながら足を運んだ。するとようやく陸が振り向いた。
フードからのぞく顔は茫洋としていたが、ふと、その眼にカルアが映ったようだ。
陸の瞳に、感情の光が満ちた。
その光に内側から照らされるように、頬も、唇も、朱に染めて、陸はきらめくような笑顔をこちらに向けた。
「カレンちゃんっ!」
カルアは立ち尽くした。
「来てくれたんだ……」
水上に波紋を広げながら陸が近づいてくる。
カルアは一歩あとずさった。
「待ってた……ずっと」
恍惚と見つめてくる陸。
しかしその視線が捉えているのは、ここにいない者の影だ。
その事実が、カルアの思考の空白に、痛いほどぎゅうぎゅうに押し込まれた。
「もう、どこにも行かないで」
陸に抱きしめられてはじめて、カルアは身体の感覚がないことに気づいた。
どこに行けるというのだろう――どこにもいない人間が。
そう、ここにいなければならないのは、違う誰かなのだ。
自分ではないのだ。
「君といっしょなら、ぼくはだいじょうぶ。家も、親も、友だちも要らない。君だけ……いてくれたら……」
沈む。
足元が沈む。
夕陽が沈む。
世界の色が変わっていく。
涙を一滴含んだような群青の夜空は――ブルーモーメント。
「――俺の時間だ……!」
にわかに拍手が聞こえ、カルアは我に返った。
「おめでとう」
「おめでとう」
「ふたりとも、おめでとう」
二、三人の気配ではない。何十人もが歓声を上げ、手を叩いている。
気力と警戒心を呼び起こし、カルアは沈みそうな足を踏ん張り、体勢を立て直した。
しかし遅かったようだ。
黒山の群衆がぞろぞろと砂浜に集結してくる。そのうち何人かは、蒼い光をさめざめと放つ長枝を掲げ、たいまつのように辺りを照らしている。
十代の若者ばかりのようだが、ひとり、異質な空気をまとった男が前面に出てきた。
「はじめましてかな? 〝太陽〟の娘よ」
気味の良くない男だった。道化のメイクもその笑みも、そらぞらしくて酷薄だ。
胸ポケットの辺りから発せられる蒼白い光によって、陰うつな影が相貌に刻まれている。
「誰?」
陸が冷たい声を発し、カルアを背に隠すようにして立った。
「君たちを導く者さ」
男は胸ポケットに挿したものを手に取り、カルアたちのほうに向けた。
それはちいさな杖のようだった。
杖の先端についた植物の蕾がひらきはじめ、そこから発せられる蒼白い光がにわかに強くなる。
すると陸の様子が変わった。みなぎっていた戦意が抜け、両手がだらんと下がった。
おい、とカルアが呼んでも反応がなく、ふらりとその場を離れていく。
「いい子だ」
男は近づいてきた陸の頭を撫でた。フードがめくれ、あらわになった陸の双瞳には白い光が明滅している。
「てめえ……そいつに何しやがった!」
道化男はフッと笑んだ。
「すぐに教えてやるさ。身をもってね」
「お嬢さん!」
人垣の向こうからダニエラの声がした。
「どきな、ガキども!」
イスマイルもいる。体格に優れたふたりがエレメンティアの若者たちをなぎ倒し、突破口をひらこうとしている。
だがそこで突如として、浜辺の砂が大きくうごめいた。
波打つ砂浜にダニエラが足腰をとられてうめき、若者たちも巻き込まれて悲鳴をあげる。
カルアは愕然とした。陸がやったのだ。
手の先に魔導円陣がひらいている。しかしその表情はうつろなままで、周囲のこと、自分のしていることでさえ、まるで認識していない様子だ。
野太い気勢が聞こえ、イスマイルが包囲を突き抜けてきた。
が、その突撃を阻んだのも陸だった。魔素の残光を帯びながら瞬時に距離を詰めると、その勢いを乗せてすさまじい蹴りを放った。
イスマイルはなんとかガードする。ふたりはそのまま打ち合いに入った。
どちらもすぐには抜け出せそうにない格闘の檻。カルアは固唾をのんだ。
「どうだ、娘よ」
道化が含み笑いの声を上げた。
「このままでは誰かが傷つく。止められるのは君だけだ」
カルアはひるんだ。どうすればいい?
「――アルレッキオが命じる」
道化男が、光る杖をカルアに突きつけた。
「汝の真名を答えよ!」
「……!?」
「〝太陽〟――その真の名前を言ってみろ」
名前。
嚙みしめた歯が震えてこすれた。
「オレちゃんは……」
眼の前がチカチカして、まぶたをぎゅっと閉じた。
「誰でもねえ! 名前なんて――」
そのときだ。道化男と若者たちの杖がまばゆい閃きを放った。
直後、水面に満月が映り、きらめき、白い光の柱が噴き出してカルアを呑み込んだ。
「……っ」
手で遮ろうとしても、できない。光の奔流がどんどん入り込んでくる。
瞳の奥、頭のなかが、塗り変えられて――
◆
夜天に消えていく光の柱を見上げながら、アルレッキオは表情を決めかねているようだった。
「〝誰でもない〟が答えになるとは……」
共鳴杖を通じて、巨大な術の仕掛けが発動した。それは一目瞭然だ。
しかしこの道化は術者当人ではない。術の効果や成否も含めて、多くを推測に頼るしかない。
「真名が定着していないのか……? 赤子なら、そういう状態にもなるというが」
つぶやく口ぶりに当惑と驚嘆が混じる。
が、正面に眼を戻すとすぐに道化の顔から煩わしい感情は消え去った。
赤毛の娘が水上を歩き、自ら近づいてくる。足どりは夢遊病者のそれで、いまにも閉じそうなまぶたのなかの宝石には、満月がゆらめいている。
もう少しだ――道化は喜悦を浮かべた――この手中に〝太陽〟を!
「――カルアちゃぁん!!」
誰もが不意をつかれた。
最も動揺したのはアルレッキオだろう。振り向きざま、血走った眼を浜辺の道に注いだ。
「ぁ、あんたら……何してんねん!」
小柄な少女が声を上げている。身体は竦んでいるにも関わらず、エレメンティアの若者たちが取り囲もうとすると、彼女は立ち向かうように携帯端末を突き出した。
「ケーサツ呼んだからな! 知らんで!」
「エ……リ……」
赤毛の娘が口をきいた。まばたきしている。瞳に映った満月が薄らぐ。
「くそ! 術のかかりが弱い」
アルレッキオは娘の腕をつかみ、走り出した。
蒼く光る共鳴杖を持った少年少女たちもあとに続く。
イスマイルが舌打ちし、追いかけようとした。
しかし鋭く弧を描いたマウンテンブーツの烈蹴が、それを許さない。ひげ面の額がぱくりと裂けた。
虚無の表情で立ちはだかる鉄乙女を、大男はサングラスごしににらみつけた。
「いつまで寝ぼけてんだ、オトモダチよォ!」
残った若者たちが、絵李から携帯端末を奪おうとしている。年上の女に顔を張られても絵李は抵抗した。
するとひとりの少年が脇から飛び出し、相手に体当たりをくらわせた。
「水口……!?」
てめえ、とすごんだ高校生の男が水口を殴り倒した。絵李ははっと悲鳴をのみ、集団に足蹴にされる同級生を前にただただ震え、眼に涙をにじませた。
「陸ちゃん……陸ちゃん……」
助けて――その声を黒いさざ波が掻き消した。




