31. 魔術師の宇宙
空――宇宙へと落ちていく。
バロンの身体は、すでに成層圏を通り過ぎ、人工衛星のあいだをすり抜け、なおも星巡りの空間を〝落下〟していた。
そう、〝落下〟としか言いようがない。何らかの力がこの女を引きずりこもうと働いている。
巻き込まれたナッツは、いい迷惑だという思いと狼狽とを眉間に浮かべた。
「バロンよ、これは……」
「魔術師の〝夢幻〟……行き先は見当がつくわ」
進行方向に背を向けているバロンは、帽子が飛ばないように手で押さえる以外、身動きが取れないように見えた。ジタバタすまいと決めているだけかもしれないが。
む、とナッツは眼を見張った。
いつの間にか、視界のほとんどをおおうほど巨大な物体が目前に迫っている。
月だ。
夜空にではなく間近で見るそれは、いくらか妖美さが欠けている。岩砂の塊でしかない。
うさぎとも女性ともみなされるクレーターの図柄が、不意にぐにゃりと歪んだ。
荒涼とした岩星の表面が一種荘厳なスケールで突き出し、峡谷のような大口をひらいて、山の峯のような烈牙を剥き出しにした。
「バロン……!」
「ええ、ちゃんと〝視てる〟」
バロンは眼隠しを引き上げた。
頭部を一周する花冠のような魔導円陣の帯が現れる。その花弁を模した部分から光の筋が垂れ、バロンの頬を流れ落ちた。
――涙星滅星
きらめく銀河の彼方から、無数の隕石が飛来する。
まるのみにしようと待ち構えていた獣の月は、重連砲のような流星の直撃を受けた。
破片と砂煙が噴き上がる。その月は見た目のわりに、スコーンのようにもろそうな崩壊ぶりだった。
バロンとナッツは飛び散ったデブリと塵芥のなかに呑み込まれたが、能力でつくりだした石の殻のなかでやり過ごした。そこを突き抜けたあとは、身の自由を奪う引力も消えていて、女と猫はしばし無重力状態に弄ばれた。
「やったか……?」
「それは禁句よ」
そのとき、どこからか無数の糸のようなものが伸びてきて、バロンとナッツの五体に巻きついた。月の残骸のひとつひとつから黒い毛が伸びている。
周囲を漂う無数の無機物が、見る間に黒い猛犬へと変身し、いっせいに牙を剥いた。
「――芸のないじいさん」
バロンは周囲に騎士像の団を展開。
襲い来る犬の群れを迎え撃たせながら、騎士の剣で黒毛の拘束を断ち切らせる。そして自らも攻めに転じ、ふたたび流星雨を降らせた。
分はバロンにあった。なにせ攻防ともに厚みが違う。
黒い森が動いているかのような大型犬が、たちまち背を割られ原形を失い、ちょこまかと動きまわる小型犬も、一匹とて騎士像の剣の下を潜り抜けることはできない。
だが最初に血を流したのは、女魔術師のほうだった。
「っ……」
のどから込み上げ、唇の端からこぼれた赤い液体が何なのか、バロンはわからないようだった。
胸の央を〝内側から〟食い破っている獣の顎を、半ば呆けたように見下ろした。
「……前言撤回」
微笑み、掲げた手のなかに、鋭い結晶石をつくりだした。それで自らの胸を、そこでうごめく獣の頭部もろとも貫いた。
直後、バロンの身は獣とともに石に変わりはじめた。さらに、四方八方から飛んできた騎士像の蒼く光る武具に串刺され、ぼろぼろと朽ち果てた。
「もう――いいんじゃないの? シリウス卿」
一体の騎士像が面頬を上げる。
眼隠しをした蒼白い顔が出てきた。
この女の生命活動はこれしきのことでは止められない。
「ぬ?」
ナッツの毛が勝手に逆立った。
次の瞬間には、身体ごと引っ張られた。
背後の空間に、ジョージアン様式の厳めしい扉が現れ、黒猫を吸い込もうとしていた。
バロンの手が間一髪、ナッツのしっぽをつかんだ。
「あんたはこっち」
放り飛ばす。
入れ替わるように、黒衣の女は扉のなかに吸い込まれていった。




