第二十一話 世界は彼女の思いのまま
時計の針は今、5時10分を指している。
僕は宇野さんを見た。宇野さんも僕を見ている。とても近かった。垂れ下がるさらさらした黒髪を手でよけ、その下から窺うように据えられた眼はその潤みさえ見える。木彫りのように素朴で、しかし宝石のように輝いた、綺麗な瞳だった。
そして僕は慌てて離れた。直後に狼狽を出来るだけ隠すべきだという思考が走ったが、どうも難しそうだ。宇野さんも同じタイミングで一気に離れ、今は少し頬を赤くしている。なんというか、まずいことをしてしまった。
それから僕は幾分落ち着きを取り戻し、誠や輝耶を見た。二人とも僕を見、目が合ってから頷いた。
どうやら――。
実験は成功である。
僕達はタイムスリップした。
10分だけだけど。
僕も誠も輝耶も、5時20分を体験している。憶えている。そして今時計の針は5時11分を指している。これは紛れもなくタイムスリップであり、時間遡行だ。
僕達は笑い合った。不思議な達成感が僕達の間にあった。一人でなくみんなで実験をやる楽しさ、僕は今更ながらそれに気付いた心地だった。
しかし、笑ってばかりもいられない。本題はこれからなのだ。
「宇野さん、早速だが次の段階だ」
「え? これで終わりじゃないの?」
「ああ、俺達を巻き込んだ時間遡行ができた。このことからさらに可能性は広がった。つまり、対象を限定した時間遡行だ」
「対象を限定した時間遡行?」
「言ってしまえば、タイムふろしきだな」
先程宇野さんは僕達4人だけを対象外にして世界を改変した。正確に言うならば、改変の対象外にされたのは寄せ集められた僕達の頭の中だけでなく僕達4人の身体全体、それからそれを含む――恐らく球形状の――ある一定の範囲だ。それが証拠に、僕達は10分前は頭を寄せ集めていなかったのに遡行後に頭を寄せ合った状態だったし、僕達4人が囲んでいる机に僕が密かにつけておいた印――これも10分前には無かったものだ――もしっかりと残っている。つまり多分宇野さんは僕達を含んだある範囲を排除する対象としてイメージして、能力を発動したのだろう。
このあたりのことは、宇野さん本人には伏せてある。予め知らせておけば結果が変わってしまう可能性があるからだ。
宇野さんの世界改変能力は、改変の対象外にする範囲をある程度コントロールすることができる。とにかくそんなことが今回の実験で分かった。
そしてそこから次に考えることは、「ではその範囲はどのくらいコントロールできるのか、どのくらい大きくすることができるのか」である。
僕は時計の針が5時12分を指すのを待ち、黒板に赤いチョークで手の平大くらいの丸を書いた。
「この丸の部分だけ時間遡行させてみてくれ」
タイムふろしきとは、ご存知某青いネコ型ロボットのひみつ道具の一つである。タイムマシンや宇野さんの能力が「タイムスリップする為のもの」であるのに対し、「タイムスリップさせる為のもの」という言い方ができるかもしれない。
その名の通りの風呂敷で、被せたものの時間を左右する。風呂敷の表で包むと時間が早く進み、裏で包むと時間が戻る。つまり先程宇野さんがやってみせたのと逆のことをしてくれる道具なのだ。
先程宇野さんは、ある範囲の内側の状態を保持し、外側の時間を疑似的にではあるが遡行させた。次は逆に、ある範囲の外側の状態を保持し、内側の時間を遡行させようというのだ。
「改変の対象外となる範囲を限りなく広げて行き、この丸の以外のすべてにまでその範囲を広げれば、できる筈だ」
「やりたいことは分かったけど、それならもっと段階的にやって行くべきなんじゃないの? いきなりその丸以外の宇宙すべてなんて……」
「もちろん段階的に範囲を大きくする実験もやるべきだ。だけど先にこれをやっておきたい」
「理由は?」
「俺の勘。そうした方がいいような気がする」
素っ頓狂な僕の答えに宇野さんが閉口した。
ちなみに、理由が勘というのは嘘だ。ちゃんとした理由が一応はある。
多分、範囲を大きくするのには限界があるだろう。宇野さんがイメージに描けなければいけないのだから、あまりに大き過ぎればきっと無理だ。ある範囲以外の宇宙すべてなんてもっての外、想像できるわけがない。
が、想像の焦点を対象外にする範囲でなく対象にする範囲に持ってくればどうだろう。「この範囲の中以外を時間遡行させる」「この範囲の中を時間遡行させる」両者には想像し易さという点においてあまり違いがないように思える。どころか、むしろ前者――つまり既に実現できたこと――の方が複雑であるようにさえ見える。
改変の対象外とする範囲をコントロールするのではなく、改変の対象の範囲をコントロールする。ある意味では逆転の発想であるが、これがもし実現できるなら、段階的に実験を行うのはむしろ危険である。
宇野さんの能力は宇野さんのイメージに左右される節がある。例えば先程の実験のように予め言い渡していない結果まで出たり、改変後の世界に自分が複数存在するか選択的であったり、僕の煙草を吸うのを止めたときなど本来その時間軸に居なかった筈の僕の家に直接時間遡行して来たのだ。これらの現象には機械的に条件を代入して行くような厳密さよりも、なにか、宇野さんの曖昧な意図を汲むようなシステムの存在を感じさせるものがある。
であるなら、能力発動時の宇野さんの心理状態や認識はかなり重要である。先入観によって能力の内容が変質してしまいかねない。
例えば宇野さんの言うように改変の対象外とする範囲を徐々に大きくしていくような実験を行えばどうなるか。それはもちろん予想しか立てられない事柄だが、僕の想像ではこうなる。
多分どこかの時点でそれ以上範囲を大きくすることはできなくなり、即ち「これ以上は無理」と宇野さん自身が認識してしまうことになるだろう。そんな状態では次の実験の結果にも影響が出かねない。
だからこれらの実験は、宇野さんの能力をただ単純に探るという意味だけに留まらない。宇野さんの能力を強化し、開拓する可能性さえ孕んでいるのだ。
そのために、実験の順番は非常に重要である。できるだけ成功しやすいような実験、成功すれば大きな利益がある実験からやっていきたい。
そんなわけで、僕は今日2番目の実験にこの実験を選んだのだ。
「宇野さん、さっきは理屈上ああ言ったけど、能力を発動するときは「この範囲以外の全宇宙を除外して時間遡行させる」ではなく、「この範囲を時間遡行させる」というイメージでやってね」
「わかった、そうする。その方が簡単そうだしね」
その簡単そうというのが、何より重要なのだ。
宇野さんは黒板上の赤い丸を見つめ、意識を集中し始めた。ちらと時計を見る。どのくらい時間を遡行させれば丸が消えるのか見当をつけたのだろう。
「手を前に翳して」
誠が静かにアドバイスした。たしかに、そうした方がイメージしやすいかもしれない。なるほど、イメージの作り方に関しては誠の方がかなり上級者なのかもな。
宇野さんが手を翳す。そこで僕は少し後悔した。どうせなら丸の中に何かを書いて、戻すのは丸の中、とした方が良かったかもしれない。丸自体を消すなら、当然時間を戻す範囲を丸より大きく取らなければならない。曖昧な、定まっていない範囲をイメージするのはもうすでにできたことではあるが、それでも難しいことに変わりはないだろう。
しかし、もう遅い。既に宇野さんは意識をかなり集中させている。ここにきて邪魔を入れるべきではないだろう。
黒板へ向かってすらりと伸ばされた手、広げた掌。宇野さんは目を見開き、叫んだ。
「救いの……道!」




