第二十話 忘れてはならないこと
策を練れ。
それが母の口癖だった。僕と輝耶の母親である。
変な親だと思う。純粋で素朴な子供に向かって「策を練れ」とはどういうことだ。その言葉が食卓でさえ飛び交うのだからこれはまったく閉口ものである。
とはいえ、良い親だったと思う。そんな教育があったからこそ、僕も輝耶も何事に対しても強かな姿勢を貫くことができる。目標や利益や理想に向かって常に考え、常に行動する、そんな僕達の行動原理を与えてくれたのは間違いなく母のあの口癖だ。
そんな母は、最後の最後にやはり僕達に大切なことを教えてくれた。いや、本当は教えて欲しくなんかなかったけれど。
母は6年前、僕と輝耶が小学生だった頃、死んだ。
道路に飛び出た、車に轢かれそうになった子どもを突き飛ばし、代わりに轢かれて死んだのだった。
策を練れ、いつもそう言っていたあの人が、何の策もなしに人を助け、結果死んでしまった。小学生だった僕達は――いや、輝耶がその時どう思ったのかはやはりよくは分からない、少なくとも僕は――それを素直に、美談として受け入れることはやはりできなかった。やり場のない怒りが僕の思考をあらゆる方向に捻じ曲げた。
とはいえ、そんな僕も今はもう高校生である。少しは素直に母のことを考えられるようにもなったつもりだ。そして多分、うまくは説明できないけれど、母の示した最後によって僕の中の強かさはまた新たな要素を持った。輝耶もそうなのではないかと思う。
僕達は常に考える。あくまで強かに考える。
だからひと段落したように思われる宇野さんの能力についての考察及び実験も、僕はずっと続けていた。策を練りながら。
「どう? できそう?」
「うーん、なんだかできそうな気はしてきた……ただ、やってみないことにはどうにも……」
登校中にばったり会った宇野さんに、僕は以前から依頼していた事柄についての進捗を尋ねた。
「じゃあ今日やってみよう」
「わかった、放課後ね」
そうして僕達は、つまり僕と宇野さんと誠と輝耶は、放課後、教室に集まった。
ところで、宇野さんの能力には変なところがある。
矛盾というわけではない。時間遡行でなく世界改変能力だと分かった時点で、多分矛盾は消えた筈だ。いや、それは僕がそう思ってるだけで本当はどこかにあるのかもしれないが、とにかく僕から見て矛盾はない。
ただ、矛盾とはいかなくても不整合な感じ、違和感はある。それはこの世界が創作物の中の世界であるということとの不整合だ。
宇野さんが救いの道によって世界をあらかじめ記憶された過去の姿に書き換えたとき、書き換えの対象外となるのは宇野さんだけだ。宇野さんだけが世界の改変を知り、実感できるし、それによって時間を遡行したように感じることもできる。
そしてそのとき、当然ながら僕や誠や輝耶はそんな実感を得られはしないのだ。世界が改変したことを知らないし、時間が遡行したとも思わない。再現する時間によっては僕と宇野さんと誠と輝耶の間に起こったいろんな出来事も忘れている――いや、忘れているのではない、そもそも経験したことがないのだ――だろうし、この世界が偽物の世界だと知らない状態になることさえ考えられる。
これが、他の物語なら何の問題もない。時間遡行者の周囲の人間との齟齬はむしろ常套的な展開であると言えるし、遡ろうと思えば浦島太郎まで遡れるだろう。だが――。
僕達の場合少し事情が違うのである。
僕達はこの世界が偽物であることを知っている。そして同時に、あまりに多くのことをまだ知らない。つまりこれからも存分に真実を探求する必要があるのである。
そんな僕達が、時間遡行などするだろうか?
考えてもみて欲しい、それが疑似的なものであるとはいえ、宇野さんの能力は見かけ上は時間遡行と言ってまず問題はない。先程も言ったように能力を使えば宇野さん以外の人間は記憶をいくらか失くすし、この世界に対する観察や知識もやはりいくらか失う。
そこには宇野さんがまだ至っていない事実もあるかもしれないし、そうでなくても、宇野さんは失った分の知識をわざわざ僕達に教え直さなければいけなくなるだろう。そしてそれは、簡単なことではない。
状況は入り組んでいる。伝言ゲームのように情報を行き来させるうちに変質させてしまう恐れさえあるのに、あえて時間遡行を行う必要性もない状況で、無駄な時間遡行などする筈はない。現に僕は宇野さんに「緊急時でない限り時間遡行するときは言ってほしい」と言ってあるし、軽々しく時間遡行する気は僕にも、そして多分宇野さんにもない。
しかし、それでいいのだろうか?
いや、僕としては何の異存もない。そもそもこれは僕や僕達の都合の話なのだから。だが、この世界は創作物の世界だ。僕達以外の都合だって無いというわけにはいくまい。作者である神や、この世界という物語を見る読者の都合というものもある筈なのだ。
そう考えてみると、状況はいささか不自然だ。時間遡行を中心に回っている筈の宇野さん周辺の僕等の物語は今、少なくとも宇野さんの能力については膠着している。時間遡行中心の物語の筈が、時間遡行を極力行わない方向へ向いてしまっている。これはおかしくないだろうか? つまり、創作物として。
作者の無策と考えることはできる。展望もなしに、よく考えもせず宇野さんの能力を設定した結果、こんな膠着状態に陥ってしまった。そう考えることは十分にできる。
だがその場合、それに対応する策がないとは思えない。例えば煙草を吸った僕を消し去ってみせたように、僕なり他の誰かなりに危害を加えれば、その程度によっては宇野さんは時間遡行せざるを得なくなるだろう。修正は十分に可能なのだ。
しかしそれも今のところない。至って平和である。神の悪意に怯えていた――今も十分に怯えてはいるが――ことが恥ずかしく思えるほどである。
これは一体どういうことなのか。
そこで僕は一つの仮説を立てた。宇野さんの能力にはまだ秘密があるのではないか、と。
例えば、である。例えば宇野さんだけでなく僕や誠や輝耶の記憶も保持することができるとしたら?
その場合、膠着という問題は消え去る。時間遡行を控える理由は無くなる。僕達の重要な目標の一つがこの世界についてさらに知ることであることを考えれば、むしろ時間遡行は多いに使って然るべきだろう。
それが、今回の実験である。
僕達――僕と宇野さんと誠と輝耶――は今途轍もなく変な状態にある。
教室の中心の机の上で、ごつんと、頭をぶつけ合っているのである。僕達は四角い机のそれぞれの辺から中心に向かって頭を集い合わせている。変な宗教の儀式みたいだ。
一応、意味はある。僕達の記憶は多分僕達の頭に宿っているのだろうから、その位置を出来る限り集めておくことで中の物理的状態の保持を宇野さんにイメージさせやすくしているのだ。
「戻る時間は?」
「あまり余計な影響を残したくない、10分前でいいよ」
そう言いながら、僕は机の上に集めた頭を少し曲げ、黒板の上にある時計を見る。
「今が5時19分、あの針が20分になったら、5時10分まで戻ってくれ」
「りょ……了解……」
宇野さんも頭を苦しそうに曲げ、黒板上の時計を眺める。
もう多分分かったと思う。今回の実験内容、それは――。
宇野さん以外を巻き込んだ時間遡行である。
時計の針が5時20分を指した。




