第二十二話 丸はどこへ消えた?
黒板上に描かれた赤い丸、それに向かい手を翳す宇野さんが意識を集中させ叫んだ次の瞬間、音もなくそれは消えた。
あとに残るのはもうだいぶ古くなった黒板消しを適当にかけられたがゆえにまだ結構チョークの粉が付着している、しかし一応何も描かれていない黒板だけである。丸が描いてあった筈の場所も、描く前に確認しておいた状態にどうやら戻っている。
実験は成功である。
宇野さんの救いの道は対象を限定した時間遡行まで行えることが分かった。いや、あるいはその能力は先程獲得した可能性もある。
「おい……これ、物凄いんじゃないか……?」
誠がほとんど愕然としたような、乾いた声を出した。
「最強の部類に入ってもおかしくない能力だぞ、いや、時間遡行の時点でそうだけどさ。こんな能力があったら、もはや何でもできると言っても過言では……」
「誠」
「……あっ、すまん。まずかったな、こういうことを言うのは」
「いや、いい。むしろ言ってくれなければ止められないしな。つまり、そういうことを思ったり考えたりするのも極力控えた方がいいと、やっと言える」
「なるほど、確かにそうだ」
宇野さんと輝耶は何のことやらと言いたげな顔をしている。まぁ分からなくても無理はない。僕達のこの懸念自体、それほど根拠のあるものでもないのだから。
僕達――つまり、僕と誠――が恐れているのは、「最強の部類」という言葉が出たことが示すように、バトル展開である。恐れる理由は言うまでもなく危険だからだ。戦闘ほど、闘争ほど、危険なものはない。その上「最強の部類」がまともにバトルできるような能力が相手となるであろうことを考えれば、尚更である。と、いけないいけない、こんなことを考えるのも控えねばならない。
「ともかく、これは大きな進歩だ。宇野さんの様子からすると普通の時間遡行より意識を集中しなければならないような感じがするが、そのうち慣れるだろう。そしてこの能力があるのとないのとでは大きな違いがあることは、言うまでもない」
「うん、そうだね……でも、ホントこれ……疲れるよ」
宇野さんはそう言って、床に座り込んでしまった。少し息も上がっている。相当疲れたらしい。
「そんな宇野さんに頼むのは気が引けるが、もう一度能力を使ってほしい」
「ま……まだあるの?」
「お願い、あと一回だけ。疲れない方の――普通の時間遡行でいいから」
「まあいいけど……」
そう言って宇野さんが立ちあがろうとしたので僕は止めた。
「すぐじゃなくていいよ、少し休んで」
「ありがとう、でも大丈夫。普通の時間遡行はもうほとんど全然疲れないから」
そう言って宇野さんはやはり立ち上がり、時計を見上げた。
「で、何時?」
僕はまだ息の荒い宇野さんが心配で、そんなに急がないのに、と思ったが、しかし聞かれて黙ってるわけにもいかず「5時13分」と答えた。
「……というと、丸を書いた後、消す前か」誠が丸と時計を交互に眺めながら言う。「ん?……うーん、た、確かに、これは気になるな」
「どういうことですか?」
輝耶が尋ねる。誠の腕を掴むのを忘れないところを見ると、先日の一件もそれほど応えてはいないようだ。僕は少し安心する。
「もうすでに何度もできているんだから普通の時間遡行ができることは間違いない」そう言ってから、誠は今は何も書かれていない黒板の一点を指差す。「だけど、あの場所に関しては、時間遡行した結果どうなるのか分からない。なにしろ、あそこはさっき、丸を書く前の時間に戻されたんだからね。宇野さんの能力が正体として記憶と世界改変を持っている事を考えると5時13分に戻れば5時13分の世界が再現され、つまり黒板には丸が浮かびそうなものだけど、もしそうなれば、黒板のあの点だけは過去ではなく未来へ動いたのと同じことになる」
少し前に宇野さんに聞いてみたことがある、「過去ではなく未来へ行くことはできるか」と。宇野さんはそのとき「多分できないと思う」と答えた。根拠はない、なんとなくだが、できそうにない、と。
しかし局所的な時間遡行ができた以上、これまた疑似的で限定的な未来への旅行も、できそうではあるのだ。
「よ……よくわかんないんだけど」
宇野さんが首を傾げる。
「つまり、経験したことのある未来に戻れるかどうか、ということだよ」僕は解説を始める。「例えば俺が煙草を吸って消された世界を宇野さんは既に体験している。体験した以上救いの道のセーブ機能によってその世界の一瞬一瞬は記憶されている筈だし、ロード機能によってその世界を再現もできる筈だが――それはできない、そうだね? 宇野さん」
「う……うん」
「でもそれはおかしいんだよ。少なくとも部分的な時間遡行によって丸を消せた今となってはね。さっきも言ったように部分的な時間遡行は世界改変の例外となる範囲を宇野さんのみから限りなく押し広げ、丸以外の全宇宙にしただけ。つまり連続的に繋がっていて、結局のところ同じようなことでしかない。つまり、俺が煙草を吸った世界を煙草を吸う前の世界に戻したことは、丸のある黒板を丸のない黒板に戻したのとまず同じと言っていいことなんだ。であるにもかかわらず、煙草を吸った世界に再び戻ることができないと言うならば、黒板に丸の描かれた世界にも戻ることができないということになる。これは結局時間遡行自体が止められることに等しい、黒板に丸が書かれていた時間に関してだけね。でも、それはちょっとおかしいでしょ」
そんな簡単に時間遡行できない時間帯が出来てしまっては敵わない。というよりも、あり得ないだろう。
であるなら――。
宇野さんが嘘を吐いているということになる。
「ま、嘘というよりは……心理的なブレーキがかかってただけなんだろうけど」
宇野さんが何かに気付いたような顔をし、続いて沈んだ表情を浮かべる。
多分、やはり煙草を吸った僕が消されたことは宇野さんにとってかなりショッキングな出来事だったのだろう。もうあの世界には戻りたくない、多分そう思ったのだろう。そして無意識ながら、「未来へは戻れない」と思い込もうとした。思い込んだ。未来へは戻れないということにした。二度と戻らない為に。
つまり、やはり僕のせいなのだ。まったくもって、反省すべき点だ。自分の無鉄砲で自分が傷付くのは自業自得、そう思っていた。それは正しいが、かと言ってそれだけではないのだ。自分が傷付けば、同じように傷付く人がいる。そんなありがたい人の為に、僕は極力傷付いてはならないのだ。
今のところ、いかなる手段を使っても宇野さんを過去の宇野さんに戻すことはできない。いや、実は無いことは無いのだが、そんな手段は使えない。だから宇野さんの心につけてしまった傷については、僕が責任を負うしかない。そう簡単にできることではないし、というより無理かもしれないが、それでもやるしかない。差し当たって、その傷によって歪められた認識は改めなければいけない。
「そのために、今回の実験を……?」
「それだけじゃないけどね」
宇野さんの息は既に落ち着いている。もう時間遡行に関して何の心配もない。
「それじゃ、頼むよ」
宇野さんはばつの悪そうな顔をしていたが、不意に明るい表情を取り戻し、頷いた。
僕達4人は一か所に集まる。背中を合わせ、まっすぐに立つ。
四方に向かう4人を例外として、世界は遡行――いや、改変された。
黒板には、すこし歪な赤い丸が浮かんでいた。




