第9話 言えなかった言葉(ルーヴェン視点)
最後に見たのは、叔父の笑みだった。
国境の視察を終え、帝都へ戻る途中の峠道だった。
急に深い霧が立ちこめ、数歩先も見えなくなった、そのとき。
四方から、矢の雨が降り注いだ。
突然の奇襲だった。
「陛下をお守りしろ!」
騎士たちが剣を抜くより早く、霧の中から黒い外套をまとった男たちが現れる。
男たちが放つ呪術に、護衛の騎士たちは次々と倒れていった。
俺も剣を抜いたが、足もとに広がった黒い魔法陣に、体の自由を奪われた。
そして、動けなくなった俺の前に、男たちの後ろから見慣れた顔が現れた。
「ガイウス叔父上……?」
父の弟であり、俺が幼いころから帝国を支えてきた男。
即位したばかりの俺を、誰よりも気にかけてくれていたはずの男だ。
「すまないな、ルーヴェン」
叔父は、穏やかに微笑んだ。
まるで、いつもの朝の挨拶でもするように。
「お前は少し、優秀すぎた。若造が玉座に座っているのは、どうにも見ていて落ち着かなくてな」
黒い外套の男たちが、呪文を唱えはじめる。
足もとから黒い蔦が這い上がり、首に巻きついた。
焼けるような痛みとともに、体が縮んでいく。
骨がきしみ、声が獣の唸りに変わる。
「満月の夜に、呪いは完成する。そうなれば、お前は二度と人には戻れない。ただの獣として、森の中で朽ちるといい」
叔父は、小さくなった俺を見下ろして言った。
「安心しろ。帝国は、私が立派に治めてやる」
その声を最後に、俺は国境の森へ投げ捨てられた。
それからの日々は、ほとんど覚えていない。
言葉を奪われ、力を奪われ、ただの子狼として森をさまよった。
腹を空かせ、雨に打たれ、夜は魔物の気配に怯えた。
狼の本能が、少しずつ俺の心を侵していく。
自分の名前を、時々思い出せなくなった。
(このまま、獣になるのか)
それでもいいと思いかけていた、ある日。
錆びた罠に、後ろ脚を挟まれた。
骨まで届く痛みに、意識が遠のく。
もう、どうでもよかった。
叔父の言う通り、ここで朽ちるのだろう。
そう思って、目を閉じかけたときだった。
――ふわりと、風が香った。
甘い香りだった。
春の花のような、日だまりのような。
けれど、それだけではない。
胸の奥を直接つかまれるような、抗いようのない香り。
(……これは)
心臓が、大きく脈打った。
獣人なら、誰もが知っている。
生涯でただ一人、魂が求める相手に出会ったとき、体の奥から湧き上がるこの感覚を。
番だ。
俺の、番がいる。
茂みをかき分けて現れたのは、ひとりの娘だった。
栗色の髪に、若葉の色の瞳。
古びたドレスの裾を泥で汚して、籠いっぱいに薬草を抱えていた。
娘は俺を見つけると、息をのみ、痛ましそうに顔をゆがめた。
「……ひどい」
俺は、牙をむいた。
自分でも、なぜそうしたのか分からない。
こんな無様な姿を、番に見られたくなかったのかもしれない。
あるいは、もう誰も信じられなくなっていたのかもしれない。
それなのに、娘は逃げなかった。
「大丈夫。何もしないわ。その罠を外したいだけなの」
柔らかい声だった。
娘は、錆びた罠に素手をかけた。
細い指に鉄が食いこみ、血がにじむ。
それでも、手を離さなかった。
(やめろ)
叫びたかった。
お前が傷つく必要はない、と。
けれど俺の口から出たのは、情けない獣の鳴き声だけだった。
娘は俺を小屋に連れ帰り、名前をくれた。
ルゥ。
母君が読んでくれた絵本の、月の精の名前だという。
俺には、ルーヴェンという名前がある。
それを伝えたくて、何度も口を開いた。
けれど、声にはならなかった。
だから、頷いた。
この娘がくれる名前なら、何でもよかった。
アイリスは、よく話す娘だった。
正確には、俺にだけよく話した。
薬草のこと、母君のこと、この森での暮らしのこと。
それから、彼女が生まれ育った家のことも。
魔力がないと蔑まれたこと。
婚約者を義妹に奪われたこと。
父親に「いなかったことにする」と言われたこと。
アイリスは、それをいつも笑いながら話した。
もう慣れているから、と。
けれど眠ったあとで、時々、声を殺して泣いていた。
(……許さない)
彼女を傷つけた者たちを。
彼女を泣かせた者たちを。
この呪いが解けたら、全員まとめて――。
そう思うたびに、牙が疼いた。
けれど同時に、どうしようもない無力さが胸を締めつけた。
今の俺には、彼女の涙を拭う手すらない。
できるのは、その頬を舐めて、そばで丸くなることだけだった。
行商人の男が来た日のことは、今でも腹立たしい。
アイリスに親しげに笑いかけ、あまつさえ「また来ます」などと言った。
(二度と来るな)
心の底から、そう思った。
アイリスは、そんな俺を「やきもち?」と笑った。
図星だった。
情けないことに、子狼の姿で、俺は顔をそむけることしかできなかった。
けれど、そのあとに彼女は言ったのだ。
「私にはあなたがいちばんだもの」と。
あの夜は、一睡もできなかった。
番の腕の中で、心臓がうるさくて仕方がなかった。
満月が近づくにつれ、呪いは再び力を増していった。
アイリスが触れるたびに薄れていた黒い蔦が、満月の光に呼ばれるように、また広がりはじめる。
(このままでは、俺は獣になる)
ただの獣になれば、番であることも忘れるだろう。
そうなれば、いつか本能のままに、彼女を傷つけるかもしれない。
それだけは、耐えられなかった。
だから、森の奥へ行こうとした。
彼女の目の届かないところで、ひとりで終わろうと。
――けれど、アイリスは俺を離さなかった。
「お願い。置いていかないで。ずっと、一緒にいて……!」
涙に濡れた額が、俺の額に押し当てられた。
その瞬間、彼女の手のひらから溢れた光を、俺は一生忘れないだろう。
温かかった。
帝国の宮廷魔術師たちが、誰ひとり解けなかった呪いが。
まるで春の雪のように、あっけなく砕けて散っていった。
体が、元の形を取り戻していく。
骨が伸び、声が戻る。
光が消えたとき、俺は人の姿で、腕の中のアイリスを抱いていた。
彼女は、力を使い果たして気を失っていた。
「アイリス」
ずっと、呼びたかった名前だった。
声が、みっともないほど震えた。
「アイリス……」
何度呼んでも、彼女は目を覚まさなかった。
けれど、その胸は穏やかに上下していて、頬には少しずつ赤みが戻っていた。
俺は、彼女を寝台に横たえ、その隣に身を沈めた。
本当は、すぐにでも帝都へ戻るべきなのだろう。
叔父は、俺が死んだものとして、玉座を手に入れようとしているはずだ。
けれど今は、どうしても、この腕を解く気にはなれなかった。
小さな体を、そっと抱き寄せる。
子狼のときは、彼女が俺を包んでくれた。
今度は、俺が彼女を包む番だ。
(もう、二度と離さない)
眠るアイリスの髪に、そっと唇を寄せる。
(叔父上。あなたが捨てたこの森で、俺は番を見つけた)
窓の外では、満月がゆっくりと西に傾いていく。
(必ず、帝都に戻る。そして、この娘を傷つけたすべての者に、相応の報いを)
腕の中で、アイリスがかすかに身じろぎした。
俺の胸に頬を寄せて、安心したように小さく息をつく。
その寝顔を見つめているうちに、俺はいつのまにか、子狼のころと同じように、穏やかな眠りに落ちていた。




