第8話 「全部覚えている」
「ど、どうぞ。こんなものしかありませんけど」
私は震える手で、木の器に入れたスープを差し出した。
ルーヴェン様は「ああ」と短く答えて、器を受け取る。
小さな木の椅子に、大柄な皇帝陛下が窮屈そうに腰かけている。
その光景が現実のものとは思えなくて、私は何度も目をこすった。
(皇帝陛下……ガルディア帝国の、皇帝陛下……)
獣人たちの国、ガルディア帝国。
私たちの国よりもずっと大きく、強い国だと聞いている。
その頂点に立つ人が、今、私の小屋でスープを飲んでいる。
しかもその人は、昨日まで私の膝の上で丸くなっていた子狼なのだ。
「……うまい」
ぽつりと、ルーヴェン様がつぶやいた。
「ルゥだったときも、お前のスープが一番うまかった」
「そ、それは……ありがとうございます」
どう返していいか分からず、私はうつむいた。
「あの、陛下。どうして、子狼の姿に……?」
おそるおそる尋ねると、ルーヴェン様の表情がわずかに曇った。
「身内に裏切られた」
短い言葉だった。
けれど、その声の奥に、冷たい怒りが滲んでいるのが分かった。
「視察の帰りに襲われて、呪いをかけられた。力を奪われ、言葉も奪われ、子狼の姿のまま、この森に捨てられた」
「そんな……」
「本来なら、あの呪いは満月の夜に完成するはずだった。満月の光を浴びて、俺は二度と戻れない、ただの獣になる。……そういう呪いだ」
私は、昨夜のことを思い出して青ざめた。
ルゥが森の奥へ行こうとしていたのは、やっぱり。
「だから、私から離れようとしたんですね」
「ああ。ただの獣になれば、お前を傷つけるかもしれないと思った」
ルーヴェン様は、器を持つ手に力をこめた。
「お前は、それでも俺を離さなかった」
「……当たり前です」
「当たり前ではない」
金色の瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「あの呪いは、帝国の宮廷魔術師が束になっても解けなかったはずだ。それをお前は、たった一晩で砕いた」
「わ、私が? でも、私には魔力なんて……」
「魔力ではない。あれは浄化の力だ。それも、とても強い」
浄化。
聞いたことはある。
呪いや瘴気を清める、ごく稀な力だと。
(そんな力が、私に……?)
「思い返せば、最初からそうだった。お前が首の模様に触れるたびに、呪いが少しずつ薄れていった。お前と一緒に眠るたびに、体が軽くなった」
ルーヴェン様が、少しだけ言葉を切る。
「だから、毎晩お前の寝台にもぐりこんだ」
「えっ」
「……それだけが理由では、ないが」
ぼそりと付け加えられた言葉は、よく聞こえなかった。
話を聞きながら、私はふと、あることに気がついた。
呪いで、言葉を奪われていた。
でも、話は全部分かっていた。
――ということは。
「あ、あの、陛下。ひとつ、確認させていただいてもいいですか」
「何だ」
「子狼の姿だったあいだのことって……どのくらい、覚えていらっしゃるんでしょうか」
ルーヴェン様は、スープの最後のひと口を飲み干してから、あっさりと答えた。
「全部だ」
「ぜ、全部……」
「全部覚えている」
血の気が、さあっと引いていった。
(全部。全部って、全部……!?)
頭の中を、この半月の出来事が駆けめぐる。
泥だらけの体を拭いてあげたこと。
いや、それはいい。
問題はそのあとだ。
「かわいい」と言いながら、何度も抱きしめて頬ずりしたこと。
ふわふわのお腹に顔をうずめて、深呼吸したこと。
毎晩、同じ毛布にくるまって眠ったこと。
それに、それに。
(私……ルゥの前で、平気で着替えてた……!)
狭い小屋には、ほかに部屋なんてない。
相手は子狼だからと、何も気にせずに。
「――――っ!!」
私は椅子から立ち上がり、そのまま床にしゃがみこんだ。
両手で顔を覆う。
耳まで熱い。
いっそこのまま、地面に埋まってしまいたかった。
「アイリス?」
「み、見ないでください……今、陛下のお顔を見られません……」
「なぜだ」
「なぜって! だって私、陛下に、あんな……あんなこと……!」
くすり、と。
頭の上で、小さな笑い声がした。
指の隙間から見上げると、ルーヴェン様が口もとに手を当てて、肩を震わせていた。
(わ、笑ってる……!?)
「すまない。……あまりにも、かわいくて」
「か、かわ……っ」
「着替えのときは、ちゃんと目を閉じていた。それだけは信じてくれ」
「……本当ですか」
「ああ。毎回、壁のほうを向いていただろう」
言われてみれば、確かにそうだった。
着替えるとき、ルゥはいつもくるりと背を向けて、寝床で丸くなっていた。
(あれは、そういうことだったの……)
ほっとしたのも、つかの間。
「ただ、寝顔は毎晩見ていた」
「っ!?」
「お前は眠ると、俺の首に腕を回して離さなくなる。寝言で、母君を呼ぶこともあった」
「も、もうやめてください……!」
私は再び顔を覆った。
(ルゥの前で泣いたことも、弱音を吐いたことも、全部……)
ずっと、誰にも言えなかったこと。
ルゥになら話せると思っていたこと。
それを全部、この人に聞かれていたなんて。
不意に、床に影が落ちた。
顔を上げると、ルーヴェン様が私の前に片膝をついていた。
大きな手が、そっと私の手首をつかむ。
顔を覆っていた手が、ゆっくりと外された。
「恥ずかしがらなくていい」
すぐ近くに、金色の瞳があった。
からかうような色は、もうどこにもない。
「お前の言葉は、ひとつ残らず、俺の宝だ」
「宝……?」
「呪いをかけられてから、俺は何度も、このまま獣として死ぬのだと思った。誰にも見つけられず、誰の名前も呼べないまま」
私の手を包む指に、少しだけ力がこもる。
「そんな俺を拾って、名前をくれて、毎晩抱きしめて眠ってくれたのは、お前だ」
「ルーヴェン様……」
「『ルゥがいてくれて、本当によかった』とお前は言った」
金の瞳が、熱を帯びる。
「それは、俺の台詞だ。アイリス」
胸が、苦しいくらいに高鳴った。
この人は、皇帝陛下で。
私は、家から追い出された、魔力のない娘で。
それなのに、どうしてこんなに優しい目で、私を見るのだろう。
「それに、もうひとつ。お前に伝えなければならないことがある」
ルーヴェン様は、私の手を取ったまま、静かに息を吸った。
「森で初めてお前を見たとき、俺には分かった」
罠にかかって、血まみれで。
牙をむいて唸っていた、あの日のルゥ。
「アイリス。お前は、俺の番だ」




